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本日より夏期-8月集中指導スタート/台風12号の怪

2018.08.01

 お久しぶりです。今日はまた夏日が戻ってまいりました。九州では台風12号に足止めを喰らいまして、誠に夏の移動はいつも台風に邪魔をされて、万事休すに至ること頻りです。とにかく今は東京に「ある」ことに感謝いたしております。本日より夏期日程ということで、とにかく体調に気をつけながら、と考えております。

🔵不敵な強さ、感情が見えない、なんという心の ブレのなさ

 このもたらす所以のものは、鉄の習慣以外にはない。わたしたちは、志しのために、その実現のために、行動する。然り而して行動とは鉄の習慣にほかならない。行動がブレる者は習慣の形成に失敗したものである。習慣は、日常の不変の継続にほかならない。習い事、稽古事、スポーツをやりながら、作られる習慣は、それなりの習慣、いわは似非習慣にほかならない。つまり様々な習慣がある。が、ここで、言わんとしているのは、目的達成のために必要とされる、鉄の習慣のことである。何やかやと、これだけはと言いながら、行事を優先する俗人に、習慣など最初から無理である。小6になっての、習慣を毀す行為は、もともと受検などする才覚のなかったことを示しただけのことであった。 できてないのに、できたことにする、そういうことをすることの愚かさを悟らない。この意味で、賢い人間が、受検適格者なのである。 問題は、自分の力、真の力である、ということを理解しないで、カンニングする、そういう子どもの心理が、哀れである。カンニングというのは、広い意味である。レジュメについて、何らかの方法で、答えを知って、できたことにする、騙す、なんとも非生産的な、破滅的行動であろうか。あまりによその場凌ぎの、刹那的行動ではないか。

 しかし、現実は、ありのままを映し出す。模試の結果はありのまま、決して、たまたま調子が悪かったわけではない。 わたしは、ありのままを根拠に総合診断するだけである。もし「この問題」を解けない、としたら、それがありのままということです。心情的な、できるはずだは、なんの根拠にもならない。期待や願望を根拠にするのは、素人、受検で失敗する人、適度に勉強してきた人、つまり、ほとんどのみなさんです。そういうみなさんに、質問してみれば、わかることです。小6になって、春休み、ゴールデンウィーク、夏休み、お盆、冬休み、旅行などに、帰省しましたか、発表会とその準備に時間を割きましたか、稽古事に時間を割きましたか、習い事に時間を割きましたか、スポーツに時間を割きましたか、勉強しない日がありましたか、1時間程度の勉強の日がよくありましたか。もしそういう人並みの愉しみを楽しんできたのなら、あなたたちの合格への期待は、単なる空中楼閣に過ぎないのです。考えてみてください。毎日、5時間超、1日も休むことなく、他人が帰省して楽しんでいる時も、変わらず、机に向かい、当たり前のように、勉強している人がいたのです。ゴールデンウィークに旅行する人たち、しかし、当たり前のように勉強している、稽古事、習い事、スポーツ、そんなこととは無縁に当たり前のように勉強してきた人がいる。そういう人にあなたたちは、自分たちの合格の根拠を胸張って語れますか。 あなたたちは、試験の当たり前過ぎる仕組みというものとは全く背地する行動をとっておきながら、もしかしたらとか、淡い合格の、切ない、哀れともとれる期待を抱くのです。あなたたちは、もしかしたらロマンチストなのでしょうか。現実と乖離した行動をとりながら、それでも合格すると思う根拠は、いったい何なのでしょうか。 わたしが、みなさんに求める行動というのは、決して強制なのではありません。ただあなたがたが、合格したいというからわたしはそれならと、合格のためのあるべき勉強スタンスを強く希望しただけです。しかし、そういうわたしの切望も悉くあなたたちには忌避されるのですけれど、しかし、たまに、わたしの意に沿った行動を取られる親子がいます。病気以外では休まない、課題は出し切る、常にわたしの言葉の端々にまで注意を払い、忠実に従おうとする、そういう親子がいました。決まって、親御さんは、母親であり、しかも、全面的に、わたしのことを信頼してくださっていた。子どもは「どんなことがあっても竹の会だけは休みたくない」という、熱が出たら、どんなに嘆いたことだったか、母親も子どもが泣くのに、悲しくなって、ともに泣いたという。鉄の習慣を担う者には、あなたたちの、平凡過ぎる、当面の、あなたたちが、不可避とされる、習い事、稽古事、スポーツ、家庭の事情などが到底理解しがたい、行動に思えるのです。

 魔法使いは、言いました。「子どもよ、試験に受かるのは、簡単だ」、「勉強以外のことをやらなければいいだけだ」と。よくあるお話しに、「夢を実現するにはどうすればいいの」と尋ねる少年、あるいは少女、魔女は応える、「これから誰に出会っても口をきいてはならない。もし一言でも発すれば、その時に夢は覚める」と。途中美しい女性が話しかけてくる、老人が倒れていて助けを求めてくる、小さな子が蛇に襲われている、人の良さそうな老夫婦がご馳走を用意して歓待する、様々な誘惑がある。現実界とはこのようなものではなかろうか。ここでは、もしかしたら、人間性が試されているのかもしれない。しかし、夢を実現するということは、非情に徹するしかないという教えなのではないか。いや、ここでは、選択が求められている。人間らしさをとるか、夢実現のために非情になるか。多くの、俗人のみなさは、まず、この根本的な問いかけについて、問いそのものを悟らないのか、問うこと自体に背を向けて、かつ曖昧である。勉強もすれば、それ以外のことも盛りだくさん。多くのみなさんの合格の期待というものは、本来が、根底において、空洞のままに、つまり、人生、すなわち哲学的なものとの対決を避けて、現実の日常を刹那的に目の前の当面の習い事、稽古事、スポーツ、家庭の事情という、将来の生きる礎とならないことに時間を消費する、ことなのではないか。実は、夢の実現に向けて、勉強をするということが、将来の自分、未来の生活に、投資することにほかならないということ、してみれば現実の楽に現を抜かすのは、将来の自分に投資していない、そういうことなのだ、ということです。あるいは、あなたたちは、ピアノを習うことは、将来の自分への投資だと言うかもしれない。確かに、将来ピアノで生業を立てるというなら、それは投資です。しかし、多くの人にとって、そうではない。ということは、将来の自分ということを真剣に考えて、投資する、ことである。習い事、稽古事、スポーツ、家庭の事情が、投資ではなくて、消費であるなら、それは将来に何も資することはない。もちろんサッカーでも、バレーでも、その習得の過程においての教育的成長を有意性の根拠とすることはある。これは確かに否定はしないけれど、しかし、将来の自分に対する投資としての価値から言うならば、勉強に勝るものはない。わたしは、そう思う、スポーツで涵養した忍耐力というものが、将来の自分の助けになるかもしれない。しかし、勉強に投資しなかったということは、それだけ社会的には低次の仕事につき、その中での忍耐の効用を説くことにならないか。 こうして勉強というのは、将来の自分への投資であり、習い事、稽古事、スポーツ、家庭の事情というものが、現在の消費、つまり価値の低減にほかならないということを、明確に理解しておかなければならない。

 さて、それで、ここまで述べてきて、わたしは、あなたたちの勉強というものに対する認識、姿勢というものを改めて問わねばならない。ただに受検だから勉強するのか、そうではあるまい、ということである。あなたたちが勉強しなければならないのは、将来の自分への自己投資だからです。すると、あなたたちは、さらに、それならと、将来の自分の職業について、真剣に考えざるを得ないことになる。将来の自分の姿、具体的な仕事、働くイメージ、そういうものを考える日々でなければならない。そのことで悩めば、きっと本を読むということの意味もわかってくるであろう。読書というものが、読解力をつけるためというような、正直、それはただの結果に過ぎないことなのに、そのためにとバイアスをかけて読む、無益な読み方をしてしまう。そうではなくて、読書は、自分の哲学的な苦しみからのヒント探しにほかならないということです。、順序が逆だということです。

 「わたしは将来東大教授になりたい」といっていたのは、27年に桜修館に合格した、女子でしたが、こういう将来に対する具体的な夢があったからこそ、彼女は、将来の投資たる勉強にその持ち時間のほとんどをかけることに迷いがなかったのではないか。彼女は勉強に信念 が感じられたのは投資と消費の違いをよく弁えていた、そういうことです。 世の親たちは、この辺のところが、実に曖昧です。子に投資よりも消費を、いや自らも消費を優先させる素地がある。習い事、稽古事というものが、そのままイコール消費とは言わない。もちろん投資の要素は含まれる。だから、問題は、親の見識にかかる。そもそもの問題意識を持った上でのことであったのか、ということである。 多くのみなさんは、受検ということで、塾に来られる。しかし、残念ながら、もともとの価値意識が消費にある人は、受検を消費的に考えている感が拭い去れない。習い事や稽古事と同じ消費の対象である。スポーツも消費である、家庭の事情も消費である。法事という故人を偲ぶ行事も、過去の消費であり、実家帰省もかけがえのない時間であるとしても将来の投資ではあり得ない。 よく言う部活にしても、それがエネルギーの消費であるはもちろん、将来の投資には一般にはなり得ない、という意味では、消費である。

 わたしが、勉強は覚悟である、という意味を理解していただければ幸いである。 受検と言いながら、塾に遅れて来る子がいた、来る前に、稽古事の練習に通っている、ということを他の子から聞いたこともある、本人からではない。消費と投資の無自覚がこのような曖昧な勉強姿勢をとらせるのである。親公認のこのような生活が、どういう結果に結びつくのか自明であった。落ちていつまでも泣き続けるのは、このような曖昧な認識の家庭に多いのも同じである。 竹の会の課題は、投資である。課題をやらないという選択は投資しない、ということです。何もしないという選択は、消費にほかならない。 無為に過ごすというのは、人間のやってはならない、無駄、つまり時間の消費にほかならない。人間に与えられた時間が有限であるということ、ここから私たちは、時間の価値というもの、過ぎれば、すなわち何もしなくても、消えていく時間というものをよくよく考えてみなければならない。無為に過ごすというのは、時間の消えていくのを黙認することである。時間を消費に使うのは、二重の消費である。将来に残る時間の使い方、これが投資である。人生の投資は、当面は、勉強にほかならない。大多数の人にはである。 ゲームで時間を大量に消費する、これは、大量消費であるという、あまりにもの愚かさは、別にして、ゲームそのものの、超刹那的享楽のもたらす、刹那的快楽の麻薬的悦楽に、深刻な、逆投資の闇がある。逆投資、つまりは、やがて人格の破壊、人生の破滅へと確実につながる、人格破壊過程にほかなりません。

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