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東京の公立中高一貫校を受けるということの意義

2016.01.19

  おはようございます。中1日をおいての更新となります。月曜日の早朝はあの程度の雪で首都圏の交通はパニックなんですね。雪は全く想定してない設計ということですか。東電が事故は全く想定していない設計であったことが頭をかすめました。事故が起きればすべて想定外ですから全く脳天気な話です。

 受検本番まで十日余りとなりました。小6のみなさんは規則正しい生活を送っていればそれでいいと思います。とにかく体調に気をつけて毎日を過ごすことでいいのかと思います。普段の勉強は、これまでやってきたことの見直し程度です。

 ふと思うのです。これまでわたしがいろいろと述べてきたこと、そういうことに素直に耳を傾ける人というのはほとんどいないのかな、と。平成26年の指導でわたしのことばのひとつ、ひとつを真摯に受け止めて実行した子がいた。親はいつもその子の意思を大切に思い、精神的に支えてきた、わたしにはそう見えた。 正直、わたしは「この子は合格するのだろうな、いや合格する」、と心から思った。そういう子というのは、いつもいるわけではない。いや、いないことのほうが普通である。

 わたしの思いとはちがうところで、受験生というものは、いや親もふくめて、それぞれによかれと思う考えをもち、それをやろうとするものである。わたしの意見などに重きはおかれることもない。自分の思い通りになる、と信じて疑わないのが受験生親子の常である。実は、公立中高一貫校の受検を志す親子というのは、かなり楽観的な仮定をして、それを根拠に合格を想定する。いやこれは公立中高一貫校に限らず中学受験をふくめていえることである。この仮定にはいくらでも楽観的な見通しがつけ加えられていく。「野球を小6の12月まで続ける」、それでも「合格できる」と結論づける、その根拠はもちろん膨らんだ仮定がマイナスに働かない、それでも合格できる、という意思に解消してしまう。夏にのんびり過ごしても合格できる、とする根拠は仮定である。たとえそれでも合格できる、一生懸命にやれば合格できる、と楽観する精神は多くの受験生親子に共通の心性である。試験というもののリアルを自分に都合のいいように、甘く想定して、それで納得してしまう。しかし、現実は、そうはならない。試験というものは、たとえそれだけに専念したとしても報われるかわからない。まして力を分散させたり、加減したりした人が報われることは実は限りなくない。仮定で楽観的な見通しを立て、それで合格できる、とする、そういう独善が当の本人たちにはわからない。

 わたしがふとつぶやく、口にする不安というものが、実はいつも試験のリアルを突いていたものであったこと、それがわたしにはわかるようになった。とかく受験生というものは甘い見通し、楽観論を根拠に合格を想定するものである。

 東京の公立中高一貫校を受けるということ、これが正しい選択かは近頃微妙になってきたかもしれない。都内の公立中高一貫校11校の大学進学の状況というものが、発足から10年で次第に見えてきた、それがそれほどでもないのではないか、という風潮が出始めている。3年型指導の日比谷、西、戸山といった旧来型都立の進学実績が群を抜く中、公立中高一貫校では、唯一小石川中等がこれから伸びていく予想である。23区にある桜修館、両国、白鷗、九段は、頭打ちなのか。本年の大学進学実績はその意味で興味深い。

 その他の公立中高一貫校は、わざわざ行く意味があるのか、という疑問がこれから問われてくることになろう。

 公立中高一貫校に行くために勉強する、この意義を否定はできない。しかし、ここで大手が浮上する。大手の月謝というのは安いらしい。が、実際に大手に通ってみると、実態は、大手は、通常の月謝を安くしておいて、入塾してしまえば、特別講座、ゼミをやたら押しつけて、結局かなりの額を支払わせている、そういう商法をとっている、ということがすぐわかるはずである。安いからいい、と思って選んだ人もいるでしょう。しかし、実は安くはなかったという話です。それよりも大手に行って、現実に合格できるのか、という話です。まず大手に行っても全員は合格できない、そんなことはわかるでしょ。定員の何倍もの人が大手に行っているのですから。ほとんどが合格できない前提で大手に通っている。しかし、自分だけは例外で合格できると考えてる。だから行くわけでしょ。なんとも都合のいい話です。このような非論理的な親や受験生がたくさんいるから大手は儲かるわけです。不合格となったら想定外ですか。いやそんなことはない、それは想定通り、想定内のことだったのです。大手は実は不合格を想定したのです。想定していなかったのは親と子だけです。大手で頑張れば合格できるかもしれないと思って通ったのでしょ。すべてが仮定だったのです。仮想根拠だけで合格を想定してただけです。

 公立中高一貫校の受検というのは、受検した人のほとんどが「落ちる」試験です。だから、落ちた後の処し方こそが大切です。

 公立中高一貫校の選択ということが、都立高校の進学状況をにらんで、疑問なところもある、そうであれば、公立中高一貫校を受検する場合には、将来都立高校受験の可能性のほうが強いということも視野に入れての勉強をしておくということが、思考の中にあって当然のことではないか。

 受検しない人はどんなに頭のいい人でも訓練されていないから将来区立中に行っても成功する可能性は低い。特に、今のように、都立高校というものが、制度的に、早くから準備を進めておかなければ、トップ都立高校へは入れない、という現実では、なおさらのこである。小学高学年のときに、思考訓練、勉強訓練を受けたことが絶対要件となる。このタイミングを逃したら、たとえ中学に入って、塾に行っても成功する可能性は限りなく低い。そういう状態の子が大手に行けば、対症療法しかないから、結局は潰れるしかない。

 だから、小学高学年に訓練するという意味では、公立中高一貫校受検の意味はある。しかし、これを大手でやればどうなるのか。本質的な解決、原因を直視することなく対症療法的に進めるのが大手であるから将来ただのくずになる可能性は高い。

 竹の会で訓練を受けたからといってすべてが独立した個の思考を得られるということはない。これは竹の会に入会して指導してきた実際をふまえてもことである。もともとある程度の能力がなければ指導そのものができないということはわたしの持論であったから、渋谷教室では、入会試験を実施して、指導に耐えうる子たちをのみ入会させてきたはずである。しかし、入会試験でも「準合格者」と4された者が個の思考力を獲得するか至難のようである。中には能力を伸ばした者もいる。しかし、大半は、思考そのものの形成が頭打ち、伸び止まりとなる子が圧倒的に多い。ちなみに準合格者の中から合格者は出ていない。

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