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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

東京渋谷駅徒歩10分の竹の会は23区から通う塾/指導不調なら退塾があたりまえでしょ/港区が至近とは

2017.02.07

 おはようございます。本日も青空と太陽に恵まれましてこれほどうれしいことはありません。週末には雪という情報も出ておりますが、2月は寒極まる月ですから想定の内です。わたしが大学受験したのは3月の3日~5日でしたが、積もった雪に足を取られながら会場に向かったことを覚えております。3月にはなぜか忘れ雪が積もった。寒が酷かった。しかし、その同じ3月に桜がほころぶ光景がまたあったやに思います。受験には雪がつきもの。そして入学式には桜が似合う。受験したのは高校の時と大学入試だった。高校は県内のトップ3の進学校に入った。合格するのは当然という雰囲気で発表の日は自転車で見に行った。掲示板には小さく番号だったか、名前だったか、表のようなものが貼られていたっけ。なにか感動もあまりなかった。生まれ故郷を離れて歳月が流れた。東京の冬にも慣れ、桜の季節には桜を愛でることもするようになった。ただぞろぞろと密集した人の群れが桜並木に溢れる光景だけは閉口する。静けさを求めても今は人ばかり、人が溢れて、「現代人、このバカ者どもの夢の跡、我もまたそのバカのひとりか」と自嘲する。

 竹の会はこの5月6日には渋谷教室満5年を迎えます。同じ渋谷区でも前の教室は私鉄からもJRからも遠く離れていまして、もっぱら地元の代々木中学と上原中学の生徒で占められていました。地元中学に密着した高校受験をやってきたわけです。渋谷区は第2学区に属し、日比谷や西は受験できなかった。最高の都立が21グループの戸山でした。ですから学校の秀才は戸山とか、青山に行くというのが当時の定番でした。もちろん新宿や駒場も優等生が進学するところでした。いつか竹の会を非難する人間がいて、「日比谷も受かっていないじゃないか」と毒づきましたが、都立の学区制も知らない人間が一端に批判だけはする、自分の浅知恵、誤解に気づかないで他人を批判する、そういう人間が世の中には犇めいている。竹の会に他区から子どもたちが来るようになった走りは平成19年に区立九段中学に合格した子が出てからかもしれません。あのときは九段志望の地元の小学生と港区から東大附属志望の双子の子が来ていた。つまり受検の小6が3名だけいた。小学生というのが少しずつ竹の会にも増えてきた、これまでの高校受検中心の体制が瓦解していき次第に小学生指導に重心がシフトしつつあった時であった。平成18年は当時都立高校の凋落、したがって公立中学には学習不振児が蔓延していた時代であった。中学受験は相変わらず盛況でしたが、竹の会は小4から小学生を取り込んで私立難関中に合格させることを競うという風潮にはついていけなかった。そういう中で公立中高一貫校ブームが襲来した。竹の会はもともと都立高校を指導してきたものですから、都立中学受検ということにとても惹かれたのです。平成18年にたまたま一人の小6が竹の会に来てその子を指導することとなったのですが、当時は、レジュメなどというものはなく、過去問合格法という竹の会の伝家の宝刀なのですが、これで指導しました。平成18年と云えば、都立西をめざしていた中学生のためにレジュメを執筆していたときです。今のような都立中受検のためのレジュメが完成域に達したのは、かなり遅れて平成24年の指導のときではなかったかと思います。あの年に指導した女子が小石川に合格した。あのとき、つまり25年に竹の会のレジュメは第一期完成期に達していたと思います。26年に3人いた受検生が早稲田進学会で名を馳せたのに失敗したのはわたしの指導法のブレにありました。25年の方法をとらずに、22年に執筆した「適性虎の巻」に回帰したのがいけなかった。25年の方法をそのまま踏襲すればよかったのにと後悔しました。わたしの指導ミスです。26年の指導ではその反省の元に制作したレジュメが功を奏して実実上5名中3名の合格者を出した。26年の失敗からわたしは学んだと思う。が、27年も28年も竹の会にやってくる小学生、特に、わたしが欲しかった小4は一人として来ることはなかった。どうしたことなのか。いや原因は嫌と云うほどわかっていた。竹の会を知るものが23区にはほとんどいなかった、それだけのことである。大手のように、株式会社、つまり営業至上主義で億単位の宣伝費をかけるところだけがその知名度を拡散し、竹の会は世の大手崇拝、大手志向の親たちは、いくら真摯に訴えても、歯牙にもかけない、眼中になし、頭からばかにしてかかっていた。2012年の末あたりかに入会試験を冷やかしで受けに来る親子が目立ち始め、合格しても、あっそう、という感じだった。当時の入会試験がまだ手探りの易しすぎた3問であったこともあったが、最初から腕試し、興味本位だったと思う。竹の会の国語のレジュメを見て「あら、こんなものもあったの」と大手にシフトを置いた、上から目線の母親がいたりして、合格しても、ちょっと見に来ただけみたいな態度が見え見えで鼻についた。

 入会試験合格後3日以内の申込を決めたのはこういうけしからん親子の冷やかし受検でかき乱されるのを嫌ったからだし、入会する気もないのにただ受検するという親子を排除するということで入会試験は申込フォームで申し込むこととし、自らの氏名、住所などを明らかしにしてもらうこととした。電話での申込では何者が受けたのかもわからないままにまるで泡のように消えてしまうことが、匿名の心理に通じるのか、そういう輩の出没を許容してしまうことになっていた。

 竹の会渋谷教室5年目にして、ようやく竹の会は念願の東京23区から通える、通う子たちの塾となりました。竹の会では渋谷教室に移転した2012年5月6日の第1回指導日を記念して、紅白饅頭を配ってきましたが、満5年目の今年の5月6日もまた美味しいと好評の紅白饅頭を配ることができそうでとてもうれしく思います。

 不思議なことですが、竹の会の今の場所というのは、なんと港区から至近にあるのです。バスの便がいいということもあって、なんとバスで15分もあれば、港区麻布周辺なら、着いてしまう。これは渋谷区でも新宿よりの人たちには考えられない話しです。かつてこの渋谷教室まで「距離が遠い」と云って敬遠した渋谷区在住の親がいたということですが、そういう感覚の親が多いようです。それで地元の大手塾に飛び込む、そういうことなのでしょうけれど、そういう親子の話には、必ず、失敗してうまくいってないという尾ひれがつきます。

 23区のうち、思いだしていくと、渋谷区は当然として、新宿区(都立戸山高校合格)、杉並区、世田谷区(都立駒場高校合格、都立桜修館合格)、中野区(都立戸山高校合格)、目黒区(都立北園高校合格)、千代田区(九段合格)、中央区(都立白鷗中合格)、品川区(都立小石川合格、都立白鷗合格)、大田区、江東区、港区(両国合格)、板橋区(小石川合格)、練馬区、文京区、豊島区、江戸川区など、17区に及んでいます。特別区以外では、狛江市というのがありました。元代々木教室の頃は、横浜市や埼玉県春日部市から通って来た生徒もいました。異色なのは、これも元代々木教室の話しですが、ドイツに在住の日本人がずっと「草枕」のファンで帰国してから竹の会をめざして来たということもありました。実は、芸能人の子どもさんも来ていました。漫才の青空球児・好児の好児さんの2人の息子さんはいずれも竹の会の卒業生です。今でも年賀状を頂いています。女優の藤谷美和子さんという人がいましたが、その甥御さんも卒業生でした。俳優の岡本信人さんの娘さんも竹の会の卒業生です。忌野清志郎の娘さんも来ていました。まだいたと思うのですけれど忘れてしまいました。有名人といえば、当時の大蔵大臣のお孫さんとか来てましたね。こう見てくると竹の会というは昔はかなりに有名で、そういうかたたちがよく噂を聞いてか、来ましたね。いや実は地元ではかなり有名だった思いますよ。上原駅の周辺の親世代には竹の会出身者がかなりいると思います。竹の会の卒業生だけでもう500人以上はいたと思います。どれくらいいたのかわからない。なにしろ都立でも底辺の都立、中程度の都立に行った子たちというのは、かなりの数いましたけど、記録は何も残っていませんから。親御さんの中には、個人情報ということを細かく言う人がいまして、竹の会にある個人情報は退塾したらすべて廃棄してくれという方も多いのです。

 竹の会というのは、昔から退塾が多かった。いや退塾にした子です。もちろん生徒側の事情で退塾ということもよくありましたけど、ここで言っているのは、竹の会からの退塾処分です。昔は悪いのがいて、たばこ吸ったり、暴力振るったり、落書きしたり、ととにかく手に負えない連中がいた。それに学習不振児というのがたくさんいて、塾に通わせる親も多かった。まあ、わたしはどんな子どもでも分け隔てなく見てきました。代々木中のワルとか、学年ビリとか、オール1とか、とにかくどんな奴でも引き受けた。若かったのだと思います。どんな奴でもなんとかしてやろうという気概がありましたね。引き受けたらそれはもう私生活を犠牲にして尽くしました。もう必死で教えました。そういう連中がそういう連中には高嶺の花の学校に受かっていったのです。わたしはバカを教える天才だったのです。ある時期にはそういう子たちばかりで埋まって、かかってくる電話というのは、そういう子たち専門の塾だと聞いたなどと抜かす親たちが増えて、滅入りました。それでもう秀才しか見ないことにしてそういう連中をすべて払拭したことがありました。

 親にもいろいろいてとにかく何かと注文をつけてくる、とにかく電話や手紙で文句を言ってくる親が多かった。親恐怖症、電話恐怖症というのはこのときのトラウマなのかもしれません。今でもやたら電話してくる親は警戒しています。夏期なんか、私立の親は、わがままで尊大というか、自分で日程の中から適当にアレンジして、「おいくらですか」と節約して計算してくるのがいました。ひどいのが2件ほどありましたが、いずれも退塾を告げました。1件の親は「娘が止めたくない、といっている」と言って、指導中なのに、2時間近くも電話を切ろうとはしなかった。

 わたしは昔から親と退塾で嫌な思いをしてきました。止めるときはメール一本なのに、退塾を告げるときは、揉めました。渋谷教室になって、予め退塾については、予防線の意味もあっていろいろと細かく事前説明しておりますので、すんなりといくようになりました。退塾というのは、わたしの長年の指導への思いがあります。指導が不調なのにそのまま通わせるなどというのは、親の側からもありえないことですが、塾の側でもそれは親御さんに対する背信ではなかろうか、と思います。塾というのは、カネをとって教えるところです。カネを払う側からすれば無駄なカネは払わないでしょ。もらう側だって詐欺になる。だからわたしは正直に対応している、することが正義だと実行している。もうわたしも歳なので人を騙してまで塾をやろうという気はない。良心だけは失いたくない。だから正直にダメならダメ、ごめんなさい、と言うしかない。

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