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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

東大、京大、早慶大でまた会うことも、書かれていないことと書かれていること、など

2016.04.04

 おはようございます。朝の気温は16℃、今日は20℃まで上がるそうです。外は小雨がさらさらと降り注ぎ、桜の花弁を濡らしている光景もまた春の風景かと思います。

 昨日は竹の会のお母様からいろいろと桜のスポットを教えていただき、人の知らない桜のスポットをひっそりと歩くことに憧れています。大崎から目黒、そして中目黒に近づくにつれて人の大群と飲食の屋台、店などが入り乱れ、観光地に押し寄せる人の大群を思わせるものがあります。2年ほど前に訪れた金閣寺では、庭園は外国人、特に中国人ばかりで、まるで原宿の竹下通りのようでした。徒然草でも、枕草子でも、今と人の考えることはほとんど変わらず、人というのは同じことを考え、定型的な行動をとってきたのだ、と思わずにはおれません。つまりは、人間の考えることなどは千年前と何も変わっていない、してみれば古典を読むことは人間の行動を読む、いや未来の行動を予測するのにもっともすぐれた方法なのではないかと、思えてきます。

 それにしても学問の道というものは深い、人間のできることのはるか彼方にあることばかり、やればやるほど底なしの深淵の縁を彷徨うばかりということがわかってくる。 わたしは中1の諸君が、これから最短で2年後に、例えば慶應や早稲田の高校入試問題、もちろん英語ですけれど、それなりのレベルの英語長文を20分ほどの時間で意味をとりながら読み下せるほどにまでなっているのか、ということを考えます。そういうことを考えると、これは毎日かなりに英語漬けになるほどに英語というものを勉強しなくてはならない、そう思い詰めてしまいます。 27年戸山合格者にしても、28年戸山合格者にしてもその意味では、そこまでの英語には到達しきれなかった。かれらにそこまでの危機感はなく、中2の時期ののんびりとした過ごし方、わたしにはそう見えましたが、そういう過ごし方からは到達できる英語の水準もそこそこのところかな、と思えていました。中1の夏、中2の夏、それなりにのんびりと過ごしていたようにわたしにはとれました。 早慶の英語レベルに到達するには、夏休み1日10時間没頭するほどに英語の訳に浸からなければなるまい、とわたしは思っています。早慶の英文がすらすらと読めること、それはすなわち都立日比谷の英語を簡単に読み下すことでもあるのです。そういうことを想い描いてわたしは指導の「手を打って」います。願わくば、わたしの指示をいとも簡単に流すことなく真摯に取り組んでほしい。お渡しした「英単語2100」はCDを100回聞きました、などという報告を暗に期待しております。

 今やっている英語はみな「英語5文型」の到達に向けて収斂していくものです。あなたたちは英語の文型を理解し、英文を解釈するに際して、いわゆる「5文型」思考で読解していく、これが英語の思考ということですが、そういうところに到達することをめざしているわけです。竹の会が、受験英語としてめざしてきたものは、ほかならぬ「5文型思考」なのです。どうか中1、中2のみなさんが、これから竹の会の英語精神の到達点とされる5文型思考の修得をできるだけ早く到達されるために、なお一層の努力を重ねることを願っています。

 九段、小石川などに進んだ優秀な子たちと大学受験でまた競い合うことができれば、いやきっとできます。もしかしたら慶應大学の入学式で、いや東大の入学式で再会できることもあるのではないか。大学で勝負です。そのためには、区立中へ進んだ皆さんは、まず高校入試、日比谷、西、戸山に行くことです。道は自分で決めることになる、日々の勉強を怠る者は自ら道から逸れていく、それが人生というものです。日々怠りなく勉強した者のみが到達できる、そういう人たちのみが歩む道、その道から決して逸れないことです。 これから脱落していく人、落ちていく人、そういう人になってほしくない。 

 最近は、若い親たちに多いのかと思いますが、新聞をとらない、その意味で読まない家庭が多い、いや増えているようです。竹の会の聞き取りでも9割方は新聞を購読していない。これだけ新聞離れが進むと大手新聞社も安閑とはしておれない。広告収入で稼いでいる新聞社にしてみれば読者数の減少は看過できない事実であろう。日本のように偏向的な新聞社ではますます新聞など読む気にもなれない。大手塾の派手な折り込み広告もこれだけ新聞離れが進むとかなりの無駄な努力ということになる。自民党の機関新聞に堕した読売などは端から読む気にもなれないが、我が家はいろいろ事情もあって、朝日と日経をとっている。いずれもデジタル版も契約している。朝日の偏向的な記事には正直嫌気がさしているけれども、新刊情報と文化面のレベルの高さは捨てがたい。だから一面で朝日の戯言など読んだこともないけれど、朝日が「書いたこと」よりも、「書かない」ことを「読む」、そういう反面的利用価値はあるのかもしれない。

 思えば、新聞は、特に、日本の新聞は、いつの頃から、「事実を報道しなくなった」のか。いやもともと事実など報道していなかったのではないか。マスコミの問題性としてあげられる、「書かない」ことは「ない」ことにされてしまう、ということの恐ろしさはますます現実味を帯びてくる。今は、「書かれたこと」の信憑性がそもそも怪しいということが問題視されているけれど、例えば、福島の海の放射能の汚染度などについて一切報道されないという、この態度はいったい何なのか。朝日が何も書かない、書かなくなって、もはや新聞としての生命を絶って久しい。賢明なる読者のみなさんが、新聞を捨てる日がいつか必ずやってくる。新聞が一番信用ならない、そういう日が必ず来る。ネットで情報を選別する、そういうサイトを立ち上げる人も出てきそうである。

 いやわたしたちはいろいろと朝日の絶望と似たような場面に遭遇しているではないか。こういう時代だからこそ、徒然草に学び、枕草子に学ぶ必要がある。喧しい大手塾の宣伝も、宣伝が大々的になればなるとほど、実は、空洞化が進んでいるのではないか、と疑わしくなる。

 大手予備校の時代が言われて久しい。駿台やら東進、河合塾などの名物講師がもてはやされ、予備校は溢れんばかりの参考書類、問題集類を出しまくる。いや確かにそうした予備校の出版物は優れたものばかりで、名著と言われるものも多い。高校生や予備校生には役に立つ本ばかりなのだと思う。それはそれでいい。しかしだ、それが多すぎるというのが問題だ。これだけ多いと、たとえ名著と言えども害になる。美味しいから栄養があるからと言ってなんでも取り入れていたら飛んでもないことになる。それと同じだ。古きよき時代には、1冊の参考書だけが名著の評価を受けてみなそれを使って勉強するということが普通であった。昔の司法試験では東大の先生の書いた1冊の本、たとえば民法総則なんかを読むしかなかった。受験生はみなそれしかやらなかった。今のように資格試験の予備校がいくところまでいって、予備校のテキストをやっていれば受かるということになると、試験を受ける者はみな予備校のテキストで勉強し、画一化した中で、より高い点数を取った者が合格することになると、これはどういうことになるのか。司法試験のレベルを上げているのが予備校ということになるのは、どういうことなのか。大学はいったい何なのか。刑法のさわりだけ、民法のさわりだけを勉強して、単位をとらせて、法学士というのはいったい何なのか。

 いや今日はそういう方向へ行くのではなかった。わたしは塾の先生だから、実は、こうまとめたかった。教科書でも読むときは、書かれたことの字面だけで終わらせてはならない。大切なのは書かれていないことを学ぶことだ。わたしが法律学を学んでいた頃、クロス・レファランスということがよく言われた。教科書の一行が別のところに書かれた一行と関連していく、実は教科書をその関連の文脈で読むことが重要なのだということである。だから読んでいて途中で関連するところにいくらでも飛ぶ、飛び読みをするほわけである。そういうときに索引や目次が役に立つ。あるいは、参照ページをわざわざ注釈してくれていることもある。そういう読み方をしていると字面をただ追うだけの勉強とは比較にならない理解を得ることができる。教科書に書かれたことよりも書かれていないことを読み取る、そういう勉強をしてほしいということである。これでいちおう塾の先生としてのまとめはできたのかなと思います。

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