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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

小石川中等/都立戸山・都立青山/ブレないということの価値

2019.08.03

 

 

第9章 ブレない 〜一本通す、筋を通す
 逆境が来ると揺らぐ、ブレる、のが、普通の人間。すぐに変えてしまう、人間だけにはならない、なってはならない。
 迷うのは、人間である以上、避けられない。自分の選んだもの、こと、道が、これでよかったのか、自信がなくなる、のは、通常あることである。選んだ途端に不安になる。これはよく経験することである。また他人の選んだものと比べる。これもよくやる。こういうときは、実は、自分の選択を否定している。否定しようとしている。自分の選んだものに自信が揺らいでいると、特に、他人の動向が気になるものである。他人のものがよく見える。これも人間の常である。自分の選んだものが、手に入れた途端につまらないものに見える、という心理は、安心したら疑う、人間心理の反作用的習性といっていい。実体は、単なる反作用と思われる。
迷いの正体について
 疑心暗鬼というのは、迷いの心理の一つの説明である。疑い過ぎて、判断そのものができない、状態の形容である。迷いの正体が、疑いにあることは、確かである。対象を疑うから、判断できないのであるから。AかBかで迷うのも、Aを疑い、Bを疑う、だから選べない、ということである。
 迷いというのは、失敗を恐れるから、決断できない、という心理である。だから、恐れを知らない者には、迷いがない。恐れないというのは、相当な自信家か、ただの無知からくるバカである。
 失敗を恐れては、迷いから、逃れることはできない。自分の選択が、失敗を結果する、これがプレッシャーになる。選択が心理を抑圧し、更なる正常な判断を歪める。失敗の構造とは、都合そういうものではなかろうか。
 世の中には、バカな人間がいて、受検するというのに、習い事、稽古事、スポーツなど変わらずやるという人がいる。あるいは、旅行、実家帰省、墓参、法事、様々な由無し事は尽きない。私が言いたいのは、そういう勉強以外のことに時間を使うのに、これらの人たちは、迷いがないということである。これは絶対、譲れない前提として、その余の時間で、受検を成功させることができると、考えているのである。あなたらは、神か。
 わたしは、神ではないのはもちろん、だから自分の非力さを知っている、弱さを知っている。未熟なことを知り抜いている。だから全力をかけないととてもわたしのようなものには太刀打ちできないことを知っている。何かをしながらなんて、何様と思っているのか。わたしにとても理解のできない人々である。そういう自信家の親子は大手でもなんでも好きなところにいって好きなようにやっていただければと思う。
 断っておきたい。わたしは、迷いがないと言っているのではない。それどころか、人間というのは、常に、迷いからは逃れられない宿命にある。葛藤、苦悩という言葉は、迷いが生み出した言葉ではないか。ただ長い間、試験、勉強というものと関わってきて、ここで迷ってはいけないのではないか、ここは迷わずに、続ける、専念する、没頭する、ことが、無難ではないか、そういうことが、見えてくる。だからわたしはわたしの素直な思いを述べているだけである。

 塾を選ぶ親子について、似たような人たちを見たことがある。竹の会に入って、途端に、迷う親がいた。子がまたいろいろ不満を言うから、親は、子に乗せられてまた不満を募らせる。言いがかりに近い、クレームを言ってくる。毎日メールしてくる、電話もかけてくる、その電話も長い、一時間でも話しが終わらない。中には、深夜にかけてくる親もいた。夜教室に来て深夜まで帰らないという母親もいた。自分で連絡帳を作り、毎回いろいろクレームを書いてくる母親にはうんざりした。やたら面談を求めてくる父親もいた。
 わたしにはなんとも面倒くさい人たちであった。わたしの堪忍袋は早晩切れて、早ければ一月、もって三か月。わたしの気持ち的には、追放であった。形式的には、退塾を申し出て、自らやめたのだという形になるべく腐心した。
 こういう人たちは、何かを決めることのできない人たちであり、感情的に高揚したところで選択するが、すぐ冷めるのを特徴とする。本質的に迷いという悪魔から抜けられない、自らの性というものがあるようである。
 竹の会に二回きただけでやめた、という子がいた。日能研に通いながら、という子だったが、二度出て、母親が退塾のメールをしてきた。しばらく自分で考えさせるために突き放したこと、竹の会では通常のことだが、計算力を測るために計算に時間をかけたこと、これやった途端にやめた。竹の会がどんな塾かをそれだけで決めつけてやめたということなのかと思う。大手で授業形式に慣れたこどもには、耐えられないか、つまらない、何もしてくれない、無価値なものに取られる、ようである。
 現代は、迷いの時代であり、選択に迷い、選択しても、その選択が正しかったのか、また迷う。最初の選択をいつでも反故にする。選択を覆すことの経済的損はどうでもいい。目先の見栄えにすぐ惹かれる。選択そのものが軽い、そういう人が、増殖している。そういう実感が強くする。
 何かを買うとき、似たような心理状態がある。
 安い方を買うか、値は少しはるがいいものを買うか、ふと見るとこだわりの一品が目に入る、高いがこれにするか、こういう迷いはある。安物はすぐ壊れるし、質が悪い。使用感は最悪である。100円ショップならまっいいかというのはわかる、これだけ安くてこれだけ使えるというのはある。
 この点、ブランド品は、品質や作りにこだわりがあり、高いだけのことはある。ブランド品には、ブランドゆえの究極の無駄がある。私的には、ラフに使って、使い倒す、タフな一流品というのが、憧れである。一流品と贅沢品は違うというのは、わたしの持論である。「使い勝手がいい」というのが、決めてと思う。

 話は逸れたが、不器用に、頑なに、最初の選択に拘る、ブレない、頑固にこだわるという生き方が、実は最短最速のものごとの成就の方法ではないか、ということを言いたかったのである。竹の会にきて、一年未満で止めた人たち、たいていは長くて半年、3か月ほどという人、超少数ではあるが、確かに「いた」人たちのことである。こういう人たちが止めた後、竹の会のことを何と言っても、この人たちは竹の会のことを実は超主観的にしか見ていなかったということである。特に、大手経験者に多いのは、1時間でも考えさせるという指示に堪えられないで、たちまち竹の会は何もしてくれない塾と親に言い募り、親もそれなら時間の無駄と子に全面的に従うの図である。目新しい、短時間で目に見える効果しか見ようとしない親子の愚図が手に取るようにわかる。

 一度選択すると、確かに、様々な美味しそうに見える誘惑が手を替え品を替え表れてくる。それは実は選択した者本人に内在する、飽き性、隣の芝生は青い、軽さから来ているものであるが、本人にはわからない。途端に今やっていることは下らない、意味のないもので、とにかく他人の芝生の青さばかり目につくにようになる。「変えない」人を古い、頑固、要領が悪い、時代遅れ、先見の明がない、などと揶揄するのは、必ずしも間違ってはいない。企業などは「変えない」場合が命取りになることはよくあることである。社会は変わる。だからわたしたちも変わらなければ生きていけない。環境に順応する、適応するのが、生存の法則である。ただ、そうとしても、変えない、ブレてはいけない、一本筋を通す、ことが大切である。

 わかりにくいですか。竹の会は、最初こそ、授業形式でしたが、それこそ毎年のように進化し、変わってきました。しかし、決して変えない、変えてはいけない、ブレない、ブレてはいけない、一線だけは固執してきたのです。変わらなければ塾としては消滅していたでしょう。だから竹の会は進化することによって変わってきたのです。しかし、竹の会の精神だけは決してブレることはなかった。竹の会道をブレることなく歩んできた。無骨なまでに律儀に歩んできたと思います。

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