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深層事実を読み取れる人になれ!~算数は国語読解の特別な場合だ2/

2020.10.24

 

深層事実を読み取れる人になるれ!

 算数は国語読解の特別な場合だ2

 今日は、算数を極めることは、国語読解の読み取りを鍛えている、ということ、をさらに敷衍していきたいと思います。巷には、国語読解力のない者は算数ができないというような主張がなされているようです。どうも算数をやる前に国語をやれ、というようにも聞こえます。国語が算数の前提かのような口吻です。必ずしも間違いではないと、思いますが、この論の前提には、算数と国語は別物、違うものだという前提があるように思います。
 いやいやそんなことはない。算数も国語の一分野ですよ。算数独自の概念、思想というものはもちろんあります。しかし、算数も読み取りです。事実の深いところ、これを深層と呼ぶなら、算数は深層事実を読み取る学問です。国語の読み取りが、文章の論理的関係から、文の意味を読み取ることに向けられるのに対して、算数は与えられた事実から事実に込められた意味を、読み取ることに向けられます。もちろん国語も語られる文章の提起する事実の解釈があります。ただ国語の事実は、抽象的な文章の前提事実です。例えば、環境論なら、環境の現状を事実認識、評価しての論陣なります。
 算数の事実は飽くまでも具体的な事実です。ですから算数の事実の読み取りは事実の深層を探ることに尽きます。
 国語の読み取りが、抽象的な概念によって纏われた価値の読み取りであること、そしてその価値は論者が論陣に適合する事実を、ある意味都合よく拾い上げたものであること、抽象的論陣にもその土台には「事実」がある、ということです。しかし、国語の論議は得手して机上の空論になりがちです。
 国語の議論が抽象的な観念の論理的な整序になりがちなのはその通りです。しかし、よくよく考えてみると、事実のところがかなり軽視されていることが多い。事実の誤解の上に論を立てていることもよくあることである。つまり、抽象的議論に論理性を競うのは結構なことですが、その土台の事実の読み取りが曖昧、偏見、好悪によって、いい加減になっていることが多いのです。誤った事実を前提にして、非難しているということは、多くの人に見られるある意味普遍的な性癖です。
 だからこそわたしは具体的事実の深層を読み取る技術を算数を通して、訓練しなければならない、と痛感するのです。これは焦眉の急を要する事柄です。訓練が功を奏するのは、小学生、しかも低学年のときしかないからです。わたしは、小学低学年の過ごし方が、その子の未来の在り方に大きく関わると見ています。わたしの経験は、訓練した小学生と訓練のない小学生の差が埋め尽くしがたい差となっていることを教えています。

 よく大手塾に行っていた小学生が小6になって、なぜか竹の会に来ることがありますが、いつも思うのは、大手では、訓練できできていない、ということです。計算も雑、割合の理解もほぼなし、ましてや思考のスタイルなどあり得べくもない。特に、学校の優等生が大手で時間を無駄にするのは、ほんとうにもったいない、と思います。大手には、もともと優秀な子どももそれなりにいるのです。そういう子たちが、本来なら揺るぎない実力をつけられていたのに、2年も3年も通って、なんともあやふやな力しかない、というのは、残念でなりません。いやほんとうにもったいない。竹の会で早くから訓練していたなら、と真実思う。わたしなら、仕上げる、学校の優等生ならトップクラスに持っていく、そういうことができる。

 話しは、変わりますが、わたしは高校受験の専門家です。わたしを信頼してわたしに任せてくれれば独自校に合格するのは夢ではない。
 任せるというのは、指導のすべてをわたしの差配に任せるということです。すべてをわたしがコントロールするということです。成績はすべてわたしに報告すること、わたしの指示なしに勝手な勉強をしないこと、わたしの指示したことは100%実行すること、そういうことです。
 落ちたのは、例外なくわたしの指示を無視、先送りし、わたしに成績等の情報を隠し、自分の裁量で勉強した場合だけです。
 わたしの指導で落ちた子は一人もいません。
 老婆心ながら、都立中学受検で落ちた子について、力はあったのに発揮できなかったというケースは、ほとんどの場合、母親が、介入していた。わたしの指示よりも、母親の判断が優先していた、ように思います。
 何もかもわたしに任せてくれる、そういう親御さんが、成功しています。よく母親が、「この模試を受けました」と結果報告がある。それも結果がいいときだけ。、悪ければスルー。それからなにかとどこやらで得た知識で、参考書や問題集を、買ってやらせるとか、わたしの関知しないことをやるわけですが、私は時間的、能力的、かつ戦略的に可能かなどいろいろ考えて、指示するわけですが、とにかくわたしの指導は確実に壊されているわけです。親はわたしの指導の合間に、邪魔しない範囲でと思っているのかもしれないが、指導とは、トータルで子どもを見て可能なら最大限の処置をすることを言う。親の老婆心は指導の妨害以外のなにものでもない。

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