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渋谷教室移転満10年/思い込みというバイアス/

2022.05.01

竹の会通信2022.05.01

 今日から5月です。渋谷教室の最初の指導が、2012年5月6日でしたから、もう満10年が経とうとしています。例年渋谷教室移転を記念して会員のみなさまに配布してきました紅白饅頭は去年から大きくなり、今年は8日(日)に配布することになりました、指導日ではないBのみなさんには当日の12時前後にご足労ではありますが、取りにきていただければ幸いです。

 竹の会はもうわたしの体力勝負となってしまいましたが、一年一年を全力を尽くしてゆくだけと悟りました。今年も紅白饅頭を配れることがわたしには奇跡のように思えます。塾という仕事を始めて、今年は、筑駒、開成を取り、もともと高校受験を専門としてきた私にはこれで頂点を極めた、わたしの仕事は終わった、いやいつ終わってもいい、そんな心境にありました。

 竹の会を信頼して遠くから通ってきてくださるみなさまのために、これからはわたしの持てる指導の粋をただただ尽くしていくだけと淡々とした心境にあります。

◎思い込みというバイアス

 みなさんは、問題を読んで判断するとき、どういう過程を取っていると思いますか。

 よく私の父は「絶対と言うな!」と戒めていましたが、この絶対の呪縛から人間が逃れるのはほとんど不可能のように思えます。世の中に絶対などないと知ってはいても、人間というのは、心の片隅に常に潜在的な「絶対」というバイアスを働かせるものであります。人間というのは絶対バイアスに支配されている。だから常に判断を誤らせる危険にある。人間は「絶対正しい」という思い込みからは逃げられない。なんとも無邪気な信念ではないか。「絶対正しい」という思い込みは、すなわち思考停止を意味する。この思考停止こそが人間にはこの上ない楽な道なのである。何かを信ずるというのは、それが楽だからでもある。宗教の教祖様の言うことを絶対正しいと信じれば以後は何も考えなくていい。思考は停止したままでいい。権威ある書物の言葉を信ずるのもまた同じ。優れた人格者の言うことを信ずるのもまた同じ。ノーベル賞の山中教授が言ったからと信ずるのは自己の内に巣くう「絶対バイアス」がそうさせるのである。テレビの中の弁護士タレントが言えば「絶対正しい」のか。弁護士は法律家である。それが国際問題をコメントする。はっ? 専門外なら仕入れてきた知識、誰かの言ってることを借りて何か言っているとは思わないのか。芸人がコメントする。まあ、テレビというのは、知的水準の低いとこで視聴率を稼ぐのでなければなりたたないから、もともと信用ならない。それに国家に忖度するテレビが真っ当なことを言うわけもない。ネットでは、根拠もない、伝聞情報が拡散しているし、わたしたちの絶対バイアスが危険な思考停止をもたらすであろうことは予測に難くない。

 「つい何かを無条件に信じてしまう」。私たちはどうしても考えなくていい道を選択してしまいがちである。疑う、疑うことしか妙案は見当たらない。

  これは、すべてものを見るときに、問題があるからである。問題を見たときに、そこで起こっていることが、自分の知識、それまでの経験と食い違うときにどう判断するか。「知識を捨てて目の前の現象にしたがうか」それとも「目の前の現象を知識に合うように歪(ゆが)めるか」。選択肢は2つである。実際は、人というのは、ほとんどの場合、後者を選択する。これが有名な正常性バイアスと言われるものだ。嵐の海にでもヨットツアーに乗り出すのは人間のこの心理による。自分が絶対正しいと信じていることに、現象がうまく合わないとと、現象そのものが間違っていると決めつけてしまうのだ。活字は絶対正しい、と思えば、現象が活字と違えば現象がおかしいと言い出すであろう。要は、現象を優先するか、自分の絶対と信じている知識を優先するか、という話しである。

 さて、目の前の現象を優先するとして、つまり、自分の知識は捨てるとして、ここで現象そのものを虚心坦懐に「考える」、いや注意深く観察する。もれなく観察することが必然となる。われわれは問題の答を探してはならない。考えるというのは、解決の糸口を探すことにほかならない。よく子どもたちが、答え探しをしているのを見かけるが、そういう子はなかなか算数が解けるようにはならない。面積図を書け、というと奇妙奇天烈な図を買い来る。解決の糸口を見つけるための図ではおよそない。

 解決の糸口を探すとは、どういうことか。それは手がかりを探すということだ。よく国家資格の問題を解いていると、意味のわからない言葉がある。もしその言葉の意味がわからなければ、どうするか。自分にはまだ知識や理解が足りないとして、さらに猛勉強するのか。これが多くの受験生の思考である。しかし、そうではあるまい。そんなことを言っていたら、受験生は万能の神様の知識を求められていることになる。そんな人間などいない。手がかりを探すというのは、「わからない」意味をわからない意味のままに考えるということにほかならない。このとき、有効な手段が、等値と反対である。「わからない」意味と等値の関係がどこかにないかと探す、あるいは反対の関係がないかと探す、のである。

 目の前の現象を観察力と抽象力で見ること。これは手がかりはすべて目で見えるということを前提としている。そして、試験問題は作った人間がいるのであり、その人間は、その問いに万人に合意できる正解がある、と知っているから、そういう問題を作ったのである。つまり、試験では正解のない問題はない。その場の状況をよく見比べて、「抽象化」の基準を見つけられるか、である。

 現象を見る→知識→判断 の過程をとるのが、思考の流れである。ところが、現象をそのままに見ることができない、どうしても知識の絶対性が思い込みをさせる。現象を歪めるのだ。だからこの現象を見るとは、一歩距離を置いて、現象の輪郭というか、抽象化したもの、抽象化してから、見るということが、言うならば、学力の向上につながるのではないか、ということである。かつて中央大学真法会という司法試験の団体があり、その会長というのが、弁護士で法学博士ということをいつもまず述べてから、いろいろ忠告、助言をしていたのですが、よく言ったことに「行間を読め」というのがありました。今考えると、とんでもないバカな話しです。でも当時の受験生は真面目に受け取っていました。というか、今でもそれが国語教育の真髄みたいなことが言われています。しかし、それは人間を神様と同じに扱うことにほかなりません。

 勉強とは、現象を、目の前のものが発する情報をくまなくとらえること、つまり、観察力、そこから抽象化すね訓練のことをいう、ということです。決して、やみくもに知識を求めることではない。学力がつくというのは、現象を、ものを、抽象化する、能力、観察する能力が高まることです。

 

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