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減らず口を叩く子はなぜ落ちるのか

2021.10.15

 

◎減らず口を叩く子はなぜ落ちるのか
 大人を小馬鹿にしてくるヤツ、目端の効いたやつが多いのだが、また頭がいいと思われているヤツも多いのだが、何かと皮肉るヤツ、揶揄してくるヤツ、も同じ範疇である。
 こういう子たちは、まず合格した例がない。馬鹿にしてくるくらいだから、それなりにできる、いやそれどころか、かなりの知能の持ち主もいた。頭の回転の速い子もいた。模試の成績だって例外はそれなりにいたが概ねいい、というかトップを争うほどによかった者もいた。それだけになかなか生意気な口をきいたものだ。それなのに本番で成功したという例が一例もないのはどうしたことか。
 翻って合格した子たちの顔を一人一人思い出して見ると、一人としてそういう輩はいなかった。これは不思議なほどにである。
 減らず口を聞く、大人を小馬鹿にする、そういう心理というのは、裏から言えば、素直さに欠ける、ということである。試験の極意というものがあるとしたら、わたしは、それは、先人の教えに忠実にしたがう素直さにあると考えている。
 そもそも先生を揶揄うというのは、素直さの欠片もない。根拠のない慢心のなすゆえではなかろうか。指導者としては、将来の悲劇が見えるだけになにやら複雑なものがある。
 合格した子たちの姿を思い起こすと、それはその子たち心地よい立ち居振る舞いが内実から自然と滲み出た、控えめな精神的態度を忍ばせる。
 だから彼ら彼女らは、恐縮し、謙虚に、教えを請う態度に満ち溢れていた。自然に敬語を使い、相手の事情を思い遣る心の深さを感じたものである。
 こういう子たちが合格していったことは、当然の成り行きではなかったか、と私には思えてならない。
 反骨の精神というのは、自立心、主体性において、すぐれていることの現れではあるが、往々にしてこういう人は苦労することになっている。人生を遠回りしてようやく気がつくのである。素直に生きていれば、すんなりと成功したものを。自らの考えに固執したがために苦難の道を歩む。自分の考えと先人の考えのどちらを取るか、迷うことはない。先人に従うに決まっている。人間の考えることなんてたかが知れている。歴史に検証されてきた先人とまでは言わなくても、先輩、先生、難関試験合格者など先人の声に素直に耳を傾けよう。
 減らず口というのは、特に、目上の者に対するそれは、自らの至らなさを棚に置いていることもさることながら、そういう態度に見える非従順さが問題なのである。慢心、驕りは自己の非を顧みることもなく、人を非難する点において既に破綻しているのである。自己破綻に思い至ることもなく驕り高ぶるのは、傍目にもあまりにも愚かなことである。

 慢心は自らを省みることなく、スキだらけにする。自分の足下を見ないで、反骨に心を奪われる。慢心、驕りに自らの進歩はない。慢心した時点で進歩は止まる。いや退化する。風化する。
 いいですか。
 合格するには、素直が一番である。それから合格する子というのは、落ち着いている。物静かである。先人を敬うことにブレがない。絶対敬意を持っていた。
 落ちた子、特に、合格してもおかしくない実力、模試成績を持っていたのに、何故か落ちた子には共通点があった。一言で言えば、無礼なのだ。冗談で済ますこともできる。笑って流すこともできる。しかし、それとしてその無礼さは何故か不合格という形でブーメランのように我が身に跳ね返ってきた。
 心静かに受検が迎えられないなら、既に結果は出ている。
 大切なのは、学問への思いであり、真摯ない気持ちである。先人を敬う心である。受検を前にして騒ぐ、これは既に終わっている。結果は出ている。大切なものが欠けている。ときに、入試は、愚かな人間の祭りである。

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