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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

私の、歩いてきた道・・・

2021.07.03

竹の会通信2021.07.03

※入会試験の趣旨と退塾

 入会試験は、都立中高一貫校の合格をめざす、志しある児童を求める、のが趣旨です。
 入会試験は、入会後の指導が円滑に進められるか、すなわち学習の進捗が滞りなく進められるか、を基準としています。と言っても、入会試験は万能ではなく、仮に合格したとしても実際にはその後の指導が円滑に進められない事例も生じています。入会試験の合格がその後の進展を必ずしも約束するものではないのです。指導に堪えない場合があるのは避けられない。こういう事態については、入会試験の趣旨からは、やはり退塾をお願いするしかない。
 進捗が甚だよろしくない、という事態は、紛れもない退塾相当事由です。親御さんからご相談があるとき、私としては、それは竹の会の指導についていってないのだから、退塾のご判断をして然るべき事情かと考えております。 
 「先生、これからもお願いします」とはならない。それは、入会試験の趣旨に計れば、そもそも入会が許されない場合だったからです。
 進捗が捗々しくないというのは、竹の会の指導をもってしても指導困難とされることが、明らかな場合であり、先生と相談してなんとかなるという問題ではないと考えております。

 同様の趣旨から新規入会者につきましては、6か月を目安に、退塾をお願いすることもありうることをご承知おきください。

 ※月途中の退塾については、規約により以後の指導が指導不能として、打ち切りとなります。残日程を意味もなく「出る」ことにはかねてより疑問を感じてきましたが、指導そのものが無意味なために規約としました。

※ 模試についての竹の会の考え
  模試は、貴重な検査機会です。わたしは、小6になった、7月から、月に一回のペースで模試を受けるようにと指導してきました。しかし、何かと口実をつけて、見送る人たちが必ずいました。模試は、実力を測る、他の受検生との相対的な位置を知る、会場、試験の雰囲気に慣れるなど、意義はかなり大きい。ところが、特に、力のない子ほど模試を避けたがります。しかし、これは考え違いで、わたしは、模試は、そもそも受検するだけの才能があるのか否か、を教えてくれるとともに、合否そのものをかなりの蓋然性で教えてくれる、わたしには、これから大手術を受ける前の血液検査に匹敵する重要性があります。
 過去、いろいろと理由をつけて、模試を見送った人たちがいましたが、自分の今の赤裸々な素力を直視したくないのだろう、とは思いました。
 今の客観的な位置を、相対的に、見極めておきたい、これはまともな塾なら当然のことで、最低でも1か月に一回はチェックしていかなければならない、とわたしは考えています。
 模試という血液検査は、何度も受けなければ、なかなか真の力はわからないということです。落ちる、落ちた子ほど模試の回数が少ない、多くて2回というのがありましたが、何も判定できないでしょ。かつて都立文京が危ないというので、VとWで合わせて10回以上は受けた生徒もいました。もちろん模試を睨みながら指導を重ね無事合格することができました。
去年の受験の生徒は、会場テストがなく、検査不十分で、正確な検査値がなかったことが致命的でした。
 わたしには、模試という血液検査データは多ければおおいほど助かるのです。

 

◎私の、歩いてきた道・・・
 
 私は母に向かって歩いている、きっとそうなのだと思う。
 
 私はいつもzucaのキャリーに教材なんか詰め込んでガラガラと引きながら教室まで通っている。以前は、重い荷物をズッシリと肩に掛けて運んでいた。脊柱、腰の負担を考えて、zucaを買った。以来、ずっとzucaは私のかけがえのない助っ人となった。仕事柄レジュメや書物などをよく運ぶ。手放せない道具になった。自宅から最寄りの駅まで、渋谷駅から教室まで、zucaはいつもズッシリと重い、ガラガラと引っ張る、塾のある日は、わたしは、道をzucaと歩く。
 母がこの世からいなくなってそれまでの私の心の奥底にあった支えがなくなった。母は、塾生の合格を楽しみにしていた。毎年、私の報告を楽しみしていた。塾生の合格を何よりも喜んでくれた。私の悲しみ、苦しみを唯一共に悲しみ、苦しんでくれた母、毎年母に会いに帰るのが私の生き甲斐であった。私たち家族の幸福をどんなに願ってくれていたことだろうか。姉一家、弟一家の安定した将来と比べて、わたしの将来の不安なことをいつも心配してくれた。
 母が突然亡くなった。私は一年も二年も母の死が信じられず、現実のものとは信じたくなくて、母の喜ぶ姿を見たくて探した。
 愛とは、存在を確かめること、見ること、見守ること、ではないか、とよく思った。会えるのに会わないで、10年も20年も過ごせるとしたら、そこに愛はないんじゃないんかい!
 昭和60年夏だったかな、塾の名前を何にするかで、悩んだ。いいアイデアが浮かばなくて一週間が過ぎた。朝、ふと「竹の会」が浮かんだ。「これだ、これで行こう!」
 母曰く、「あなたは塾で成功する、塾の申し子、天性の才がある」、怪しい占い師に吹き込まれたらしいけど、もしかしたら「当たっているのかな」と真面目に思った。
 9月に代々木中学2年生に謄写版で印刷した募集葉書を出したら3人の女子の母親が面談に来た。翌日「お願いします」の電話。10月から週2のペースで2時間授業をすることになった。教材も何もなかった。机や椅子を中野の中古店に買い求めに行ったっけ。
 数学と英語の教科書やら市販の問題集やら使って授業した。
 竹の会は、こうして始まった。
 私はとにかく歩き始めた。長い、長い竹の会の道を歩き始めた。
 何もなかった竹の会の一期生の親御さんには、よくぞ来てくれました!と感謝するしかなかった。何もかも手探りだった。私には家庭教師の経験があるだけだった。私は夢中で授業に取り組んだ。1か月もしないうちに、「熱心な先生の塾がある」という評判になり、たちまち生徒が増えた。何クラスかに分けて、私は、授業を回した。中2の10月〜12月に来た生徒たちは、竹の会一期生と呼ばれた。その子達が中3になり、いよいよ東京での初めての高校受験に取り組むことになった。数学、英語、国語、理科、社会の教科書はすべて読んだ。数学と英語は東京都のすべての教科書を読んだ。それから市販の問題集を集めた。代ゼミとか駿台とかのテキストはよく利用した。何も知らなかった。有名な新中学問題集があったこと、プログレの教材があったこと、など多くを学んでいった。新大久保の教科書会社にはよく行った。様々な教材を手にして研究した。東大の生協にも行った。東大で使われている英語教材の調査だった。そのうち塾専用教材の卸会社や新中学問題集の会社から取引を認められて、ようやく塾の体裁が整いつつあった。
 60年12月にひとりの男子生徒が来た。青山学院志望の中2だった。現在は河合塾グリーンコースに通っている、ということだった。家庭教師は東大の学生二人をつけている、とも言った。それまでは、名だたる有名塾を経験してきた、と言った。面談して、個人指導でやることとなった。1回目の指導で、彼はたちまち竹の会の虜になった。家庭教師を断り、河合塾もやめた。竹の会だけにした。「先生、僕はいろんな塾を経験してきました。竹の会が一番です」、彼は爽やかに言った。
 わたしは、彼のために、いや彼がいたから、開成や武蔵、慶應、と難関高校の過去問を解き続けた。力をつけた彼は「開成を受けたい」と言った。びっくりしたけど反対はしなかった。開成は落ちたけど、市川高校青山学院に合格した。
 平成に入った頃、周辺には、評判の英語塾があり、上原中のほとんどの生徒が通っているという話しを聞いた。月謝は公文並みで、通い易かったこともあったと思う。そのため竹の会には、数学だけでいい、という子がよく来た。わたしは、竹の会の英語を舐められていたのが、気に入らなかった。竹の会の英語を確立することが急務と考えた。
 何十冊もの市販の英語参考書、問題集に目を通したことであろうか。塾専用教材もいろいろ取り寄せた。人気の新中学問題集やプログレスなども全部目を通した。たまたま手に入れた青山学院中等部の英語プリントを検討することもできた。
 わたしは、コツコツと英語のプリントを書き溜めていった。当時はワープロ専用機の時代であった。わたしは数台を潰すほど使い込んだ。数年も経つと作ったプリントは膨大な量になった。それで今度はそれを体系化していった。高校入試の過去問から作ったプリントも膨大なものになっていた。わたしは、とりあえず「英語指導案」として、まとめた。素案であった。そこから、それを叩き台にして、肉付けしていった。
 そうこうしているときに、今度は高校生の英語授業をする話しが持ち上がり、私は新宿高校駒場高校の生徒を相手に授業をすることになった。そのための準備には時間をかけた。高校用の英語教材を買えるだけ買って読んだ。それからノートにまとめた。いよいよ授業開始。私は毎回準備に追われながら1年間この授業を続けた。それぞれが大学に合格していった。
 わたしは、授業のノートを溜めていた。ここからわたしはさらに英語を深めることができた。平成10年には、東大受験を想定した英語指導もやった。
 私の指導には、常に誰かがいた。誰かのためにわたしは研究することができた。それは受験合格という結果を私にもたらした。
 竹の会の英語は高い水準になった。その頃には、近くの英語塾は廃業していた。わたしはこの英語塾を超えるために努力してきたのに。
 数学は最初から近隣では評判であった。平成5年前後には、上原中代々木中数学5を竹の会だけでほぼ独占したこともあり、竹の会の数学は確固たるものとなった。
 昭和62年初めての高校受験で、竹の会は、青山学院高等部、市川高校、都立駒場、都立目黒、都立大附属などに合格者を続々と出した。昭和60年から私が日々取り組んできた、過去問研究は蓄積され、いつしか首都圏の高校ならどこの高校でも過去10〜30年を解き尽くしていた。ひょんなことから引き受けた中学受験をきっかけにまたまた首都圏の私立、国立の過去問を解き尽くすまで研究した。あの頃は、わたしには、算数を甘く見ていた。数学を使えばいとも簡単に解けるからだ。それはともかくわたしは図を使って解くことにはこだわった。
 私が算数に開眼するのは、都立中高一貫校の指導にシフトを変えた、平成20年以降を待たなければならなかった。
 平成10年から20年は、都立西高生、青山学院高等部生など高校生の指導にシフトを変えた時期であった。公立中学の不振都立高校の凋落の時代に、私の関心は次第に高校入試から離れていった。平成18年区立九段志望の小6の指導を引き受け、わたしは久しぶりに熱い血の流れるのを感じた。私が、都立中高一貫校に心を奪われるのは時間の問題だった。
 平成15年ごろにわたしは竹の会の指導方法を180度転換することになる、パソコンソフトに邂逅することになる。これまで自前のテキストを作る大手には敵わないと思ってきたことが、覆されることになる。わたしは、わたしの作りたいと思う教材を自由自在に創作することができた。随所に図を入れ、写真さえも入れた、思うところに文字も書ける、なんというコペルニクス的転回であったことか。当時、資格試験の予備校で、司法書士試験の書式問題を創作するアルバイトをしていた。あれは勉強になった。問題を作るのは、私に比較的楽だった。先例、判例をネタにすればいい。ただ不動産登記制度、商業登記制度にかなり深い知識と理解がないと先例を見ただけで問題が作れるわけではない。平成17年頃だったか、公立中学のできの悪い子たちが集まるのに嫌気をさして塾をやめようと思った。そこで司法書士試験を受けて見ることにした。LECの模試を受けたら、全国の上位になり、LECから講座の問題制作の仕事が舞い込んだ。割りのいいアルバイトであったこともあり、熱中した。私の問題は次々にプレミアム価格で採用された。そんなことしていたら、平成18年幡代小6の子が来た。初めての公立中高一貫校の指導ということで、これはアルバイトなんかしている場合ではないとLECをやめて、指導に専念した。この子の合格で、公立中高一貫校にシフトを変えることにした。また塾を続けられると思った。法律の世界には魅力があったけど、わたしは、母の言ったように、塾の申し子だった、子どもたちを指導するのが好きなのだ、合格して喜ぶ子どもたち、お母さん、お父さん、みんな好きだ。
 また塾の道を歩き始めた。朝から晩まで、竹の会という船の操舵に悩んだ。
 平成19年区立九段男子の倍率は11倍だった。このとき次いでに指導していた双子の女子が、東大附属に合格した。なんと3人いた小学生が全て合格したのだ。
 わたしは、これからは、都立中高一貫校に竹の会丸の舵を切ることにした。翌20年には、なんと3年間指導してきた女子が、豊島岡女子高校と都立西高校(のちお茶の水大へ)に合格した。この年は、3人いた中学生が、桐蔭理数立教新座(のち東大へ)、都立狛江に合格した。この時、思った。優秀な、真面目な子なら指導してもいいかな、と。
 だから、それからの竹の会は、中学生は、いたりいなかったり、いても2人までかな。わたしは、勉強熱心な中学生だけを指導して、志望校へ導けばそれでいい、私の指導技術がそういう人に役に立てばそれでいい。
 高校受験については、「育てる」「育てて受からせる」というかたちになったと思う。だから中学から突然入塾して来ると、未熟の故に成功する蓋然性が低い。できない子がやってきてもダメだということになる。
 高校入試も、小学低学年から「育てる」、特に、日比谷、西、戸山、青山はそうなる。
 小学生の指導も早くから「育てる」指導にシフトしている。できれば低学年からがいい。小学2年から「育てる」と育つ。小学3年からでも遅くはないが、小学2年から育てた子が、小学3年には、高度な割合思考をこなすのを見ていると、やはり早ければ早いほどいいと思う。低学年だからゆっくりやるというのは、少なくとも竹の会では誤りである。低学年から目一杯やるのがベストである。小5で、集中指導を飛ばしたら、おそらく取り返しのつかない失敗をしたことに後で気づくことになろう。
 竹の会は、進捗がよろしくなければ、早々に退塾するのがよかろうということも納得されて、入会してもらいたい。世の中の塾に、本物の塾を見つけることの困難は私も知っています。しかし、だからといって竹の会にすがりつくのは、竹の会の本来の指導ができないという点において、竹の会としても非常に困るわけです。
 他の塾に行くくらいなら竹の会がましというのも確かに合理的な判断です。しかし、竹の会では、入会時に、指導困難な場合は、退塾をしていただくということは、合意いただいていると承知致しております。
 よく進捗がよろしくないことを打診してこられる親御さんがいますけど、私の気持ちは、もうこのへんで指導を辞退させていただきたいということに尽きます。
 わたしは、竹の会を一旦はやめたと思っていましたから、渋谷教室は本当におまけと思っています。だから私の塾人生の最後のこの時期を私の思うように、ストレスのない形でやりたい、と思っていました。私の最後のわがままです。これまでさまざまな荒波を乗り越えて来た、本当にもう沈むか、座礁するか、そういう瀬戸際に何度も立たされてきた。
 そういう思いを背負いながら、歩いてきた。
 竹の会の子なら全力で指導してきた。しかし、子どもは様々に挫折する。子どもの事情、家庭環境、事情、性格、あらゆる事情でうまくいかないこともある。大手塾ならありえないことだが、小さな塾では、逆恨みを受ける。自分の子がどうであったかは、自分の子から聞く、だから偏見と誤解で逆恨みされたことは数しれない。一方的に決めつけられる。

 私のめざすもの
 総合診断医的な指導
 医療は、例えば、内科、外科、眼科と専門が細分化する。せっかく医者にかかっても、専門以外はわからないでは、患者は困る。
 そこで、総合診断医の登場である。専門の枠に囚われずに自由な視野からありうる原因の可能性を挙げて、消去法で消していく。こうして真の原因に迫る。
 わたしは、竹の会の指導のことをよくこの総合診断医に喩える。わたしは、子どもに対するとき、総合診断医的な見方をするからである。今の子どもの状況から、できない原因の可能性を列挙する。そこからその原因の一つ一つを潰していく。原因は多岐であることももちろんある。
 私の指導は、常に子どもを総合的に判断している、と思う。そこから有効な処方箋を書く。だから私の指導は処方である。この子が、わからないというとき、わたしは、当面のわからない事柄について説明することはない。わからないという子の理解していること、理解していないことを洗い直し、そこからこの子に今必要なことは何かを考える。だから、わからないからわからないところを教えるという愚行はやらない。もっと奥底のこの子の抱える問題性を探るであろう。
 仮入塾で、試験的に指導してみましょうということで、見ることもありましたが、これは失敗でした。こういう子は結局進捗はよろしくないのですが、親御さんは退塾することはないからです。かえって「竹の会で勉強したい」と懇願されてしまう。窮地です。
 総合診断と申しました。これには、受検して成功するか否か、の判断ももちろん含まれます。模試は総合診断する場合の必須の根拠資料です。この子がどこまで理解できるのか、今後割合上級者になれるか、そこそこ止まりか、これを教えて頭が混乱するか、パニックを起こすか、そういうことを間断なく判断しています。もちろん子どもの中に一瞬の閃きを察知することもある。想定外の脳の働きを知ることもある。
 もちろん誤診もある。子どものごまかしにすっかり騙されることもある。
 進んでいると思っていた、いや実際は、なにやらもやもやしたものは感じていたのだが、蓋を開けて見ると、算数が全くできていなかった。だから、もちろん適性問題も全く解けない。このところこのパターンでよく騙される。
 一昔前まえは、算数ができないならできないと明らかだった。しかし、ここ何年かできると思わされていたケースに遭遇することが増えた。
 子どもの方が上手だった。ほんとうに解いたのか、できたのか、懸念はいつもあった。しかし、結局、「説明していた」記憶しかない。それで終わったことになっている。
 わかったことにする、曖昧に終わる、そういう子が最近の傾向だ。
 試練の場に一人で立ち向かう、気概に欠ける。それで本番に突入する! そういう子が増えてきた。

 総合診断医的指導、だから子どもたちひとりひとりと向き合って、二人で歩く、そういう指導になったのかな。

 私の歩いている道、竹の会の道、わたしは今はただ黙々と歩くだけ。

 道の行きつくところにはきっと母が笑いながら手を振っている・・・そんなことを思いながら歩く。
 

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