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私は「読む」達人になりたい!

2022.08.20

 

私は「読む」達人になりたい!
 私は、新書を一番読むと思う。通常は、線など引かないのだが、気にいった部分が見つかると、黄色のマーカーでその部分に線を引く。これは次に該当部分を読み返したいときに、すぐ見つかるようにするためである。新書というのは、中に、いいこと書いてある、というのが、あるから読む。だが、いいこと書いてあるのは、全体の2割にも満たないと思う。残りの8割はページ調整で、何か書いたというものばかり。言葉は悪いが、読み捨て本だと思う。
 文庫本には、名参考書の復刻版などがあり、これは捨てられない。小説は、好きな時代小説は、どれも3度以上は読んでいるが、今は、竹の会の倉庫に保管されている。全集ものは、絶対線など引くことはない。全集は、値が張るから、やたらと線を引けない。お気に入りは、小林秀雄と丸山眞男の全集だ。最近、三島由紀夫の評論全集と夏目漱石全集をメルカリで手に入れた。
 
 線を引くか、で問題なのは、やはり専門書の類いだ。昔も今も線を引く人の方が多数派なのかと思う。線を引く人も性格や能力が影響するのか、乱雑に引く人、定規を使う人、マーカーで色分けする人、赤などの色鉛筆を多用する人、など様々である。
 私もかつては線派だったが、線を引くという行為には、デメリットが致命的なように考えるようになって、線を引かない読み方の、これまで見えなかった良さを学んでいる。線を引く間は読むのが中断、したがって考えるのが、中断する、というのが、甚だ致命的なように思う。極端な話し、線を引いているときは、考えないから、思考の流れは中断する。線を丁寧に引けば引くほど、読むことから遠ざかる。マーカーで色分けする人は、ある意味すごいと思う。本をただの手段と割り切っているからだ。私などは、本に手段以上の何か、愛着みたいなものを感じ、本を汚すのが忍びない。そういう感情も線を引かなくなった理由かもしれない。中には、線を引くことで、読んだ気になっている人もいる。線を引くと今度は線を引いたところに呪縛される。線に囚われるのだ。線のないところが雑になる。いや読まない。読み飛ばすのだ。さらに線を引くと線を引いたところは改めて文脈の中で意味を確認することもしなくなる。線が魔法のように、すべてを解決してしまうような錯覚を起こす。線はある意味、思考を飛ばす、魔法の線だ。
 線を引かないというのは、常に、文章を読み返す、ということにならざるを得ない。実践して見るとわかるのだが、何度も読み返していると、その言い回しや言葉の癖が、一つの目印になってくる。これは「見えない」線みたいなものである。線がなければ何度も読み返す、常に文の意味を取ることに意識が集中する。
 ある概念なりが、目印のはたらきをする、またある判断のフレーズが目印のはたらきをする。
 例えば、一流の学者ほど、私は、法学者しか知らないのだが、簡潔な一文によって、必要十分に言い表す。短文は、文のキレを作り、論理的である。
 私は、横断的に整理された表ならまだいいのだが、中には、無理に表化した類いを売りにする本もあり、文章にした方が余程わかりやすいのにと思う。
 表にしてしまうと、大切な何かが失われるように思う。表は覚えるものではなく、参考にするものである。
 まとめの表か、文章か。
 表は、結果であり、要するに、早見表の表である。つまり、表の利点は比較の一覧性にある。
 もし、この表を文章で説明するとしたら、そこで学者の技量の差が出る。長々と書いて、結局意味不明となるものが、学者本でも多い。だから名著というものは稀少である。今になって、我妻栄、有泉亨の「ダットサン民法」が名著だということがわかる。
 概説書も凡人学者が書けば600ページになるか、200ページの薄っぺらな内容になるか、がほとんどである。入門書の名著も少ない。現代は、出版の洪水の中にある。屑本が溢れている。
 なによりも「読む」ことを中断させないで、済むことは、より本の深みに入り込んでいける利点がある。
 中断は、リセットと変わらない。せっかく積み上げてきた意味の連鎖を断ち切ることになる。
 読むときに、注意しなければならないのは、今、読んでいるところの位置との関連を考えながら、読むことである。例えば、第二章「〇〇」の1「〇〇」の(1)「〇〇」の(a)「〇〇」のところを読んでいる、ということを忘れてはならない。読んでいて、意味を失うのは、今読んでいるところと全体との関係を考えないからだ。関係ということをより詳しく説明すると、章は、大前提、節は中前提、枝番号は、小前提となろうか。要するに、本を読むときは、大前提、中前提、小前提を踏まえながら読まなければならない。そうしないと、必ず意味がズレる。外れる。読む前に、前提を確認する。確かめる、これが大切である。
 ある章なり、節なり、枝番号なりの文章を読んだら、必ず、キィーとなる数、言葉をマークする。これは本に書き込むということではなく、付箋なりにメモして、貼っておく、意味である。不安をもたらす数、例えば「20日前」の20をマークしておく。この方法は、かつて難解な漢字、例えば、薔薇の字の覚え方は、薔なら、真ん中の一をまるで囲む、薇なら中の一をまるで囲む、という方法を提唱した、新書が出たが、それと同じ思想である。人間というのは、曖昧なことにとても不安を感じる。だからその曖昧の中に、確たるものを記憶に銘ずると曖昧だったものが、固定するという効果がある。
 曖昧さに釘を打つ! ということである。
 考えて見ると、記憶というのは、いっぺんに大量に覚えるとなると、脳は拒絶する。そこで「釘を打つ」覚え方だと、脳の負担は軽くなるどころか、脳の大好きな自由に「考える」空間ができて、すんなりと頭に入ってしまう。
 そうなのである。私たちは、脳に無理難題を押しつけるから、脳に拒絶されるのだ、ということを、つまり脳の性質を知って行動しなければならない。
 記憶するというのは、読むという行為のなかで、脳に慣れさせる、そして、曖昧だと脳が考えているところに、釘を刺す、そういうことなのではないか、と思う。
蜂の一刺しならぬ、釘の一打ちこそが、記憶の神髄なのか、もしれない。その一打ちした数なりを思い出せば、その数の背景、意味が、広がる、覚えようとしたのではない、何回も読み返し、次第に、浮き彫りになる曖昧ないところ、そこに、釘を刺す。
 釘は、急所に打つ、だから神髄なのである。
 例えば、「20」、この数字が、曖昧な記憶を打ち砕く。曖昧にしてたのは、ほかでもないこの数字だからに他ならない。

◎消去法の誤解

 試験問題、特に、選択肢問題を解くとき、消去法がいいことはみなさんも知っているかと思います。しかし、みなさんの多くはおそらく消去法の使い方を誤用しているのではないかと懸念しています。選択肢問題の取れない生徒は、選択肢を「ぼんやり」と読んでいるように思います。選択肢全体をなんとなく眺めても意味は取れないでしょう。消去の前提として、本文との対応を確認することになりますが、このとき、選択肢の全体を眺めて、本文と付き合わせようとすると、どうしても曖昧な判断をしてしまうことになります。こつは、選択肢を句読点で区切ることです。つまり、シンプルにして、本文と付き合わせる、ことです。それから消去法で失敗する人に多いのが、選択肢を○か×か、の二択で判断することです。出題側からしてみれば、なるべく選択に迷うように曖昧に選択肢を作るはずです。だから、選択するときは、○か×のほかにも△もつまりどちらとも言えない場合を残してマークしていくことです。このとき、やってはならないのは、決して自分の記憶で判断しないことです。必ず本文といちいち対応してみることです。選択肢の中には、「似た」選択肢があります。このときは、その選択肢どうしを比較しなければなりません。このとき、句読点で切って、似た部分どうしを比べます。それから選択肢の前段と後段の因果関係が論理的につながっているのか、が大切です。嘘の選択肢は無理があるので。因果関係がおかしいことが多いのです。前段と後段を「したがって」でつないで「しっくり」来るか、意味がとれるか、です。

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