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秋風が吹く頃

2020.09.17

 

秋風が吹く頃
 朝窓を開けると秋の爽やかな空気が流れ込んでくる。9月というのは自然の出方を見る月だ。残暑が続くのか、なかなか終わらない酷暑に人は耐え忍ぶ。やがて秋の風が日本を包み込む日をじっと待つ。子どもの頃の秋はどうだったのかな。家の裏の柿の木が小さな柿の実を付ける。今年はたくさん付けている。今年は実がない。そんなことを思いながら大きくなっていく柿の実が楽しみだった。最初は渋く、次第に甘くなる。祖母は富有柿と言っていた。晩秋たわわに成り下がった柿の実は喜びであった。秋は山によく出かけた。椋(むく)の木の実を取るために険しい崖に突き出た幹を伝いながら実のある先までよじ登り実を取った。必死で取った。下で待つ弟が心配そうに見ていた。巾着袋にいっぱいの椋の実を弟と二人で食べながら帰った。晩秋の頃、よく山芋掘りに出かけた。高校の頃は山奥にある本家の山によく行ったが、子どもの頃は近くの山に行った。近くに成長した蔓などあるはずもなく、土の質も赤土でないと根は張らない。やはり本家の山はよかった。本家の山は山香郡の一番山奥にあった。本家に声をかけて、山に入るとすぐ大きな蔓を見つけて掘りにかかる。近くで雉打ちの鉄砲の音がする。怖かった。だから大声を出して意味もなく弟と話した。山芋掘りは秋の私の趣味と実益を兼ねた仕事だった。春のワラビ狩りでは一斗袋にぎっしりと詰め込んで真っ暗になった山道を家路を急いだ。祖母と母の喜ぶ顔が嬉しくてしかたなかった。別府湾の埠頭からよく投げ釣りをした。たいてい小さなコチが何匹か釣れた。一度だけ大漁を経験した。サヨリの大群が埠頭の真下を回遊した。私は引っ掛け針を何本か付けた竿でめちゃくちゃに引っ掛けた。一度に数匹が引っかかった。持ってきたバケツいっぱいになったサヨリを持ってわたしは意気揚々と引き上げた。祖母と母が目をパチクリさせて喜んだ。煮付け、刺身とサヨリが並んだ。秋はいろいろ思い出す。当時運動会は秋と決まっていた。当日になると花火が鳴って、本日実施を知らせた。朝まだ暗いうちから家族の場所取りが始まる。親戚も来て、かなりのご馳走を持ち寄り、親たちは酒を飲みながら運動会を楽しんだ。秋の運動会は一大行事なのだ。屋台の店も出て子どもたちがアイスや様々な駄菓子を買って食べた。運動会が終われば朝見神社の秋祭が次の子どもたちの楽しみであった。
 秋はわたしにはいろいろな思い出が込められた季節だった。
 辛かった高校時代には苦しい思い出ばかりだ。落ちこぼれたわたしはもがき苦しんだ。その頃の秋に気晴らしにと山芋掘りに出かけた。
 やり直そう、そう決めたとき、心は軽くなった。もう進学校の先生の、方向の、見えないプレッシャーはなかった。自分で思うように勉強した。すべて独学であった。苦手の数学を克服することもわたしの自由であった。旺文社の数学解法事典に挑戦したり、街の本屋で見つけた数学技法みたいな参考書を読んだりと、暗中模索、試行錯誤を繰り返し、次第に正しい道に達したのだと思う。当時は、山川用語集や古語2000、豆単など頭から暗記していった。若さに任せためちゃくちゃなやり方だった。頭が悪いと言われればそうなのかもしれない。ただ私は参考書を絞ってそれらを何十回と回すことに拘った。旧帝大の英語過去問を見て、わからない単語がないことを確信した。時間がない。私にはいろいろ時間をかけてやる時間がなかったのだ。最低でも旧帝大に受かる、これが私に課された至上命題だった。勉強を開始したのが10月、入試は3月3日4日5日の三日間。試験まで実質5か月しかない。毎朝6時起床、朝食7時、味噌汁と納豆とご飯、祖母が用意してくれた。9時に勉強開始。文机の左側に積んだ参考書をその日のノルマだけ読む。読んだら右側に積む。全部右側に積んだら今度はまた読み、ノルマだけ読んだら左に積む、そういうことを延々と繰り返していた。参考書はどんなものがあったのか、かなりはっきりと憶えている。苦手だった数学はZ会の通販で手に入れた数Iと数IIBが一緒になったもの、200題について1ページにまとめた答案が載っていた。数学は最後はこれだけ。数十回解いた。最後の方は読んだだけで解の流れが瞬時に見えた。その効果は抜群でバラバラの200題の答案の解が有機的に結合し、数学に対する解の組み立てができるようになっていた。英語のメインは赤尾の豆単だった。6000語ぐらいあったかな。ただその前に三省堂の高価な豆辞書を前からやっていた。12000語はあったと思う。ほぼ潰していたので赤尾は三か月ほどで完璧に覚えた。あと原仙作の「英文標準問題精講」を50回ほど読んだかな。国語は何もやらなかった。強いて言えば「古語2000」というのを十回ほどやったが、完璧とはならなかった。それまでに「古文研究法」や漢文のコンパクトにまとめたものなどは読んではいた。現代文も「新釈現代文」を読み込んだことがあった。
 読書というのは、特にやったことはなかった。
 私が高校時代欠かさなかったのは、現代国語の教科書を毎日素読したことだけだった。音読である。声に出して単元を毎日十回読んだ。高3の全県模試で国語が3位だったのを答案返却の時、担任が見て、驚いた顔をして私の顔と見比べていたのを思い出す。結局、国語は特に受験のために何かをやったということはないままに受けた。
 理科は生物を選択した。暗記の多い科目だ。だが、結局何もしなかった。生物の教科書はやたら分厚くてとてもやる気にならなかった。そこで高校の時に学校で配られた数研の薄いB6の問題集を読むことにした。結局長続きせず例題の解説を読んだだけでタイムオーバーとなった。教科書が分厚いのは、選択した日本史と世界史も同じだった。わたしは山川の教科書を使っていたのだが、時間に、追われていたので、じっくりと読むことができないと諦めて山川用語集を頭から読んでいった。九大の日本史も世界史も知識問題がびっしり出ると踏んでの対策だった。山川用語集は黒いボールペンで覚えたら塗りつぶしていった。最後は真っ黒になった。わたしの文机に積まれている参考書はこれですべてだった。過去問を解いたことはなかった。なにしろ11月に受けた全県模試では番外だったのだから、誰も受かるとは思っていなかったと思う。模試はこれだけで結局本番に突入した。めちゃくちゃな受験だった。
 記憶に残るのは、数学がほとんど解けたこと、九大の英語は長文しかなくその部分解釈問題しかない、英作はある、わたしはわからない単語はなかったので、ぎこちない直訳をしたこと、わけのわからん英作文を書いたこと、日本史と世界史はほとんど埋まったこと、生物は半分しかわからなかったこと、国語は難問が出た年で、和歌を見てそれが載っている和歌集を書かせる問題が八題もあって、知ってる和歌集を適当に書いたこと、そういうことかな。
 当時九大の発表は西日本全域にテレビ中継された。わたしの母と祖母もそのテレビ中継を見て、「あった!」と叫んだそうだ。
 受験番号2017は、なんとわたしの生まれた日の17日と一致していた。
 進学校で落ちこぼれて、独学でやり直した。
 それが真実です。
 東京に出てきて郷里の秋を思い出すと、そうだ京都に行こう、と一泊がてらよく出かけた。いつの頃からか京都は中国人や韓国人で埋め尽くされてゆっくりと風情を愉しむこともできなくなった。
 秋は私には様々な思いが湧き上がっては消えてゆく。その思いは秋のあの頃受験勉強に日夜没頭した反動にあるのだろうとよく思った。子どもの頃の秋は野山を駆け巡る、天真爛漫な、遊びの天才だったのに、いつしか暗い高校時代に突入して、何かを求めて、何かを信じて、ひたすら生きてきた。
 ゆっくりと秋を楽しむこともなかった受験時代、今年はコロナでもうかつての日本はない。景色を求めてもはや気ままに出かけることはできないのか。しかし、今年の秋はまた特別だ。数年来苦しんできた持病からなんとか解放された。痛みのない秋を心安らかに迎えている。

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