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竹の会でトップ都立をめざすこと/都立中高一貫校受検を見切る/その他

2017.10.17

 正直忙しすぎて少しブルーな気分が続いております。新作問題の製作というのはまことに時間のかかる話しです。ひとつの問題を作るとしていろいろな文献を読む、過去問を読む、過去問に使えるアイデアがあればとにかく自ら解いてみる、それから問題に構成するためにいろいろと想像力をはたらかせて創作する、こうした仕事というのはほんとうに手間のかかるものです。竹の会はご存知のようにテキスト代というものはとりません。それはわたの執筆したレジュメを無償使用するからです。竹の会の費用について高いのかどうか、ということをよく大手塾などとの比較で言われることがありますが、私的には単純に時間数と費用だけで比較してほしくないというのが本音です。と言いますのは、竹の会で指導に使用しているレジュメの製作には膨大な額のカネがかかっているからです。1枚のレジュメ制作に使う費用は簡単ではありません。かけられた時間数も膨大なら、製作のために要した文献資料も膨大です。そしてわたしの知的労働も膨大です。もちろん紙代、インクカートリッジ代、ソフト使用料などそれはそれはお金のかかる仕事です。それに指導歴30年以上の指導の達人の指導です。自分で言うのも何ですが、わたしは自分の指導については、すでに達人レベルにあることを自覚しております。さてそれで他塾と比較して竹の会がどうのこうのと簡単に言ってほしくないのです。

 竹の会では、テキスト代などはまずとらないし、その他の諸費用だってとらない。わたしがいただくのは規定の指導料だけです。いちいち細かい値段設定してカネを取るなどというのがわたしには煩わしく面倒臭いことだからです。だから細かいことはどうでもいいんです。中3なんかは必要なテキストはわたしの負担で買い求めて配布することもよくあります。テキスト代は取らないと言ってきたからです。竹の会とはそういう塾です。それから子どもたちがお腹を空かせたというとき、疲れて少し休息をとる、そういうときに備えて、わたしの勝手でココアやパンなんかを用意したりもします。実は、こんなことはする必要はない、塾なのだからしっかりと成績で成果を出せばいいのだから、と言われることがあります。確かに、2年もいた子でいつもココアやなんやかやとよく飲んで楽しそうに通っていた子が合格したときその親はそのまま挨拶もありませんでした。こういう親がいますと、わたしがあれやこれやと悩んで指導してきたことの意味やわたしが子どもたちが寒い中大変でしょうと、遠いところから大変でしょうと、何時間も考えて疲れたでしょうと、温かいココアを振る舞う、そういうことは親にはどうでもいいことなのだ、いやかつての小6に「どうせこれも月謝に含まれてるのでしょ」と言われたときに正直親がそういう風に考えてるのだということを知らされた思いで、かなりショックを受けました。親のの望まないことをやっているのかとブルーになったものですが、しかし、何時間も勉強に没頭してのほんのひとときのココアタイムに嬉しそうに飲む子たちの顔を見ていると、わたしはとても心が和むのです、これはわたしが心を和むためにやっているのだということでいいのだと思っております。わたしてきには子どもたちがしっかりと勉強に集中してくれてありがとうという感謝の気持ちなんでだと思っていますから。

 中学生にはある程度自主性を認めてはいますが、なにを勘違いしたのか、レジュメをやらない、出さないという中1や中3がいたけです。竹の会ではレジュメを出さなければ確実に成績は落ちますから早晩竹の会にはいられなくなる。わたしてきには数学や英語で60点などという不埒な点をとるのはもはや竹の会にいることは不可能である、ありえないと考えております。60点しかとれない生徒を指導することはまずできない。

 新中1として竹の会に通うことになったとして、きちんとレジュメを進められなければ、早晩60点しかとれないことになる。それで中学をとるときは、そういうひとを見越して入会を許可することになる。悪くても80点という子でないと竹の会ではゃっていけない。だから小6が中学でも竹の会に通いたいと申し出てもまず断る、ほとんどお断りすると知っておいてもらいたい。よく中学になってもお願いします、と言われることもあるけれど、都立中に合格見通しのあった子が落ちたという場合でない限り、竹の会のハイレベルな指導にはついてこれないというのが事実です。

 それから最近受検の小6たちを見ていて思うのは、「ハート」ですね。渋谷Bの小6は入会試験で合格した子はいないわけですけど、わたしが心を打たれているのは、とにかくハートが強い、熱いということでしょうか。Aの小6にはハートの強い子、とにかく必死に頑張ってるなという子と何か気の抜けた、ハートが弱い、必死さが感じられないという子たちがいます。結論から言いますと、強いハートがなければまず受からないと思います。28年に富士と白鷗に合格した子たちは正直に言えば、合格を確信した子たちではありません。普段の指導でも合格はんこなどほとんど取れなかった子たちでしたし、こなしたレジュメの量も少なかったのです。それでも合格できたのは、ひとつはいい作文を書く子たちであったということのほかに、なによりも「合格したい」という熱いハートがあった、それでとにかくも彼女らなりに夢中で勉強したということです。翻って、今のAの子たちをひとりひとり見ているとどうもそういう熱いハートというものが感じられない複数の子がいる。これがわたしにはまた気分がすぐれない原因にもなっている。これと対比しても特にBの男子2人は頑張っている。できないからわたしが特にきつく指導する、しかし、よく頑張っている、合格見通しだって、模試の成績だって、今はないに等しいけれど、正直どうなるのか、わからなくなってきた、今はこの子たちがどうなるのか最後まで見てみたいという気持ちになっている。

 今時間を気にしながらわたしの最新作、しかも完全な創作予想問題の製作に没頭しています。あれこれとネタ探しのために集めた文献は十数冊程度でしょうか。読んで一日おいてアイデアが浮かぶというのがわたしには一番多いパターンでとにかくネタを仕入れたら一日寝ないと問題にならないのが大変と言えば大変です。もうひとつ単位あたり量を鍛えるというシリーズの続編「基本思考の中核」というのを書いております。徒に難しい問題を解くというのではなくて、逆に、基本を極めるとというコンセプトから、難しい基本問題の製作というのにこだわった創作を志しています。こちらも中々手のかかる仕事ですが、乗り出した船です。毎日少しずつ漕ぎ進めるほかありません。

 わたしが若かった頃にもし今のような境地に達していたならとよく思います。ああいう勉強の方法はとらなかったなとよく思います。若い頃というのは、権威のある組織、人の言った言葉というものに心奪われるものです。何気ない言葉に心を支配されて、まさに洗脳されたかのようなことが起きるのが若い頃です。今なら権威的な言葉ほど信用ならない、中身がないと警戒するのですが、若い頃はそういう批判の力がない。今考えると信頼のできる先生とか、先輩のアドバイスというものが実はいちばん役に立つ。いちばん悪いのは自分の考えで決めることなのだということがも後々わかるのです。折角竹の会にきてもわたしの指示にしたがわずレジュメも出さない、定期テストも報告しない、通知表も見せない、かえって自分の才覚でZ会の通信やったり、市販の問題集やったり、それで成績は落ちるところまで落ちてもはや手遅れなんてことになってなんのことやら。

 わたしの指示を100%実行すればそれでいい。それだけなんですけどね。できない子ほどわたしの指示から離れるばかりですね。なんだかわざわざ失敗する道を好んで選んでいるような、わたしにはそうとしか見えないのですが。

 それからこれは小学生が追い詰められていく型なのですけれど、勉強を何かにつけて先送りしてしまうという子、こういう子は自ら自分を追い詰めていくわけで、これは受検には失敗するしかないのですけれど、それだけでは終わらない。と言いますのは、その先送り、積み残しという習慣がもたらしたものは中学生になっても逃れられないほどにとりついて離れないということです。勉強というのは、常に今、目の前のことだけを夢中でやること、決して「いつか」に先送りしてはならないのだということ、これがこの生存競争を生き抜く秘訣だということです。

 

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