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竹の会にきていれば伸びていたはずの逸材が潰される構造

2015.12.08

 おはようございます。昨日は更新できませんでした。月と金は渋谷Bがありますので更新には到らないことが多くなりました。渋谷Bのある日は、渋谷Aで使うレジュメの草案を作り、教室で推敲することにしています。また日や水に提出された作文等のレジュメの添削もします。そのため朝から準備してBの始まる2、3時間前に教室に行き、せっせと仕事をします。

 作文の添削で気になるのは、読み取りで失敗している子のいることです。どうも的外れの理解をしてしまう、それで作文もおかしなことになっている。

 いい作文とはどんな作文か、ということです。作文の悪い子というのは、読解に不可欠の何かが欠けている、という感じがします。それが何なのか、少し考えてみました。おそらく普遍性に欠けるのであろう、もう少し言えば、「平衡感覚」ということではないか。

 作文の悪い子というのは、ものの見方、感じ方に偏りがある。多様性に欠ける。多様性があればこそ平衡感覚が保たれる。様々なものの見方のできる子は、一方に決めつけない、平衡感覚を発揮させることができる。普遍性がないというのも、平衡感覚の欠けるということにほかならない。

 ものごとの一面しか見ていない、限定的にしか見ていない、狭い範囲でしか見ていない、そういう視野の狭い判断が作文を萎縮させる、曲解させる。

 処方箋はないか。単純に読書をすればいい、ということにもならない。それは、知らないことに「なぜ」と興味をもち解き明かしていく姿勢、生活姿勢が問われているからである。かたちだけの読書でなんとかなることでもない。なぜと関心をもち学ぶこと、そういう生活姿勢が偏りという縛りからの脱却を可能にしてくれるかもしれない。その子の普遍性の欠如は、実は狭い親子だけの家庭環境の中で育まれてきた、多分にして親の偏見をそのままに受け継いだ結果であることが多い。つまり子どもの限定性、偏りは親が作った可能性が大きい。偏りから解放されるには、親の生活姿勢が逆エネルギーになり、しかし、子の才能がエネルギーになる。ものこどをバランスよく見ることのできる才能、それは自分を批判的に見ることのできる心の幅、心の余力を必要とすることである。

 さて、本題に戻ります。竹の会の聡明な親御さんの意見です。「竹の会にきていれば間違いなく伸びていたであろう、小石川に合格できたであろう優秀なお子さんが大手で伸び悩んでいる」というご指摘、しかもそれは実例を示してのご指摘でした。そこには「竹の会にしてよかった」という、なにやら危ないところであったという表現からは、危なく大手に行くところであったというヒヤリ感さえ感じてしまいました。

 逸材が潰される、大手のシステムとは、いったい如何なるものなのか。

 これは世の中のすべての塾について言えることですが、大手進学塾というのは、もともと教えられなくてもできる天才を集めてある意味当然の成功をまるで塾の手柄のように吹聴しているだけのことです。その他大勢の天才ではない人たち、普通の人たちは、塾にとっては商売の対象です。普通の人と言っても実はかなり頭のいい、逸材もいます。そういう子たちが潰されるのが大手です。世の母親たちが我が子を天才と思ってかどうかは知りませんが、とにかく天才と錯覚している節はある、そういう親たちが、大手の商法には欠かせない顧客です。危機を煽ればいくらでも貢いでくれる人たちです。

 大手というのは、いや世の中の塾というのは、テキストで目次にしたがって、カリキュラムを組み、授業で進めていく、そういうことではないでしょうか。テキストというのは、各単元を平等に割り振った、過去問をまぶしたものが、普通と思います。先ほども言いましたが、こういう方式で伸びるというか、頭角を表すのは、もともとの天才だけです。もっといえばその他大勢の中途半端な秀才たちは、天才を天才たらしめるための土壌の役目も果たしているということです。天才は大勢の人より抜きん出ているということを根拠に、そういう子たちを踏みつぶすことで、頭角を表していくものだからです。

 大手というのは、少数の天才が塾の価値を決め、大勢の普通の人がその価値の下に集まり、経営を成り立たしめています。大手は膨大な普通の人をもうけの対象としています。

 本来なら天才群に入り込めたはずの子も大手ではただの凡才となってしまいます。角を矯めて牛を殺すの類いです。矯めるというのは、悪いものをよくする、曲がっているものをまっすぐに直す、逆に、まっすくで形の悪いものを曲げてよい形にする、という意味あいもあるようです。大手の天才を測る尺度で強制的に測る、ということかと思います。

 大手に欠落しているのは、そういう子たちの能力を引き出す、能力を育てる技術です。もともとの天才には難しい過去問を編集してあてがうだけでいい、特に技術などいらない。ところが、世の中には優秀なのに、才能の開花していない逸材というのがたくさんいます。こういう子の中に潜在する能力を引き出してやる、それは思考力なのですが、思考する人間に育ててやる、そういうことがそういう子たちを類い稀なる天才へと引き出してやることができる。竹の会の仕事ととはここにこそある。竹の会は実は逸材、そういう逸材との出会いを求めてきた。竹の会の入会試験はそういう人材でなければ育てることは不可能であるという前提に立っている。たとえば、竹の会の入会試験でA合格をとる子、こういう子でなければ指導はそもそも無理ということを知っている。譲歩して準合格の子を入れてもそういう子の能力をどこまで引き出せるかというとほとんどが限界を持っているというとこともよく知っている。竹の会でA合格をとれる子でも大手に行けば確実に潰されます。竹の会でA合格したから大手で通用すると思ってか、過去にそういう親もいましたが、おそらく潰されたはずです。

 世間の塾というものが変わり映えのしないことではブレがないこともよく知っている。世間の親御さんには大変お気の毒と思いますが、まともな塾などというものはほとんどない、しかたなく次善の塾で満足するほかない、ということである。天才を集めただけの大手進学教室、予備校に特筆すべきものなどない。かといって、中小の塾、個人塾だってろくなものはない。

 問題なのは、そういう天才にしかできないことにあやかろうとして自分の子を犠牲にする親の後を絶たないことである。予備校が「なしえる」何かがあると思わせぶりに凡人を騙して商売をするのは世の中のありきたりの光景にしか見えない。外科医が当然のように切ることを奨め抗がん剤を平気で使うのも、内科医がやたら投薬し検査をやりたがるのも、心の奥底にあるのは同じで、できる限りカネにするということではないか。老人が「ちょっと食欲がない」と言えば薬を出し、「腰が痛い」と言えば薬を出し、「肩が凝る」と言えば、「いい薬がある」と言って飲み薬を出す。コレストロールが高いから薬、血圧が高いから薬、こうして老人は一日にいったい何錠の、何種類の薬をのむのか、毎日のむのか、これだけ化学薬品を体内に入れて、何もないと言えるのか、アメリカもそうだが、日本では製薬会社ばかりが異常に太っている、これはいったいどうしたことか。いやいやちょっと待て、大手ゼネコンの太り方も怪しい、福島のがれき処理の予算は5000億円である。あの国立競技場の建設費が2500億円ということで大騒ぎになったが、国民が何も知らないところで5000億円という予算が杜撰に使われているのに新聞も報じない、この異常事態は何か。朝日新聞はもはや信用ならない。大切なことを何も知らせない新聞にもはや価値などない。

 竹の会のような塾が東京に二つとないであろうことは想像に難くない。竹の会もそう何年もやってはいけまい。今出会った人たちこそ幸運であれ、わたしはそう思う。30年間、いい塾とは、本物の塾とは、そういう思いで生きてきた。竹の会に今お子さんを通わせる親御さんたちがいちばんの竹の会の理解者であり、竹の会を支持してくださっている。ありがたいことです。

 竹の会に入会して、一度でもわたしの指導を受けた子、親御さんが十中八九納得され、感動されて、竹の会を評価してくださるという事実こそが竹の会の証明であり、わたしの救いです。

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