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竹の会の「指導」はかけがえのないものだということについて

2020.05.12

5月7日竹の会35周年記念寄稿

◎竹の会の「指導」はかけがえのないものだということについて

 
 竹の会は「指導」と「レジュメ」と言っていた人がいた。確かに、レジュメには力を入れてきた。しかし、新型コロナの撹乱で、レジュメも竹の会の看板ではなかったのだと悟った。
 休塾して初めて悟ることもある。
 竹の会の規約に、一か月の休塾の申し出は、退塾とする主旨の規定がある。過去何度か適用されてきた規定である。この規約ができたのは、ある私立小に通わせる母親が、「7月は、学校行事が忙しいのでお休みします」と言った申し出をしてきたことがきっかけであった。一度は認めたものの、この母親は、この手をまた使ってきた。それで退塾として、規約を設けた。竹の会の規約はたいていこういう母親や父親の横車からできてきたものばかりである。

 今回のコロナ休塾は塾としては、打撃であった。一か月ないし二か月の間指導が中断するというのは、あるお母さんの言う通り「うちの子はパーになる」のは間違いないと思った。いやある意味真理を突いていると思ったし、なによりも「子どもの命を守りたい」という気持ちは真摯に感じたけれど、正直落胆したことは否めない。飽くまで他人事の政府と不安を撒き散らすテレビの言葉をそのままに、さらには東京都知事のパフォーマンス、迷惑顔の医師会が、不安と不信を助長したのは間違いない。
 事実と遊離した、何もしない発言にさらに不安を募らせて、まるで外に出たらコロナが蔓延しているかのような親たちの口吻に失望し落胆もした。悔しくて仕方なかった。それで休塾というのは退塾のことだという規約を思い出した。それで妙に納得した。竹の会には、休塾とは、退塾にほかならない。退塾したのならパーになってもわたしは関知しない。そう思えば諦めもつく。
 よく、休塾中の勉強の進め方を聞かれた。本音を言えば、指導がなければ一人進められることなどないのだ。竹の会は指導する塾であり、指導に替わることなどない。
 英文解釈なら一人で進められると考えたか、勘違いする人が出てもしかたないが、初心の間は、いちいち英文の訳をチェックしないと、デタラメのまま進めて、やり遂げたと勘違いする子が必ずいる。英文の構造をきちんと捉えているか、特に5文型を思考の軸として訳しているか、チェックしなければならない。よくあるのが英文の構造を無視して、頭から日本語に変えて繋いでいく勘違いである。それで「英文解釈は面白い」などと言う子もいた。
 レジュメは、竹の会では、飽くまでも指導の手段である。一人で進めていくというものではない。ましてや家庭で親が教えて先へ進めて終わらせたというものではない。わたしは一問の対応を見て子の理解の程度を知る。思考の段階を知る。知能の程度を知る。精神の段階を知る。家庭で終わらせたという報告だけで、その子のことは何もわからない。そもそも確かに解いたのか、怪しいものだ。子どもは、「お父さんに少しヒントをもらった」という。子どもというのは、自分で解けてないのに、「ヒントをもらって解いた」と言うのである。親が加担してどうするのか。家で解いたという子たちが、必ずと言って落ちているのは、馬鹿らしいほどの事実なのである。「できる」を装うのは、地獄に自ら飛び込む所為に他ならない。
 そういう例なら悪夢のようにわたしの脳裏に刻まれている。家庭で「教えたら落ちる」。問題の解き方、それもたいていは方程式的解法、そんなものは害でしかない。
 何度も言う。わたしは、指導しているのだ。「わからない」というとき、果たして、説明していいものかどうか、まずそこを見極める。

 考えない子は答えを知ろうとする。解き方を先に知ろうとする。親は「わからない」なら解き方を説明してやろうとする。その解き方も問題がありすぎだが、そもそも解き方以前の前段階、あるいはさらにその前段階の理解不備の問題かもしれないのである。
 さらにわたしは一問一問を解かせ、いちいちの反応を見て、理解の程度を推し量り、次なる指導の種類、内容、レベルを処方している。親はただ問題を解けば、答えを出せば、解決、次の問題と考えているかもしれないが、わたしの考えは全く別のところにある。わたしはその子の次の道筋を考えながら、その子の焦眉の急なる処方を思料している。
 勘違いした子は多い。自ら解いた経験はほとんどなく、ほぼ全問を解説聞いて「わかりました」で終わらせた子というのは、決して受かることはない。いやなかった。
 問題を解くということが、問題の答えを出すことだと勘違いしていると、教えてもらってわかったで終わらせても平気である。一つの問題にあれやこれやと悩み、絶望し、また気分を切り替えて挑戦し、何度も何度も失敗し、遂には正解に辿りつく、これがもっとも理想的な終わらせ方である。
 教えてもらって進める人は、「わかった」の前提となる思考がない。常に他人の思考をあてにした姿勢である。このワカッターマン、ワカッターガールは、他人の思考を餌にして生きている。他人の思考がなければすぐ死ぬ。だから弱い。試験には弱いのはあたりまえである。
 「わかった」とは、自分の考えで正解に辿りついたことをいう。ワカッターマンの「わかった」は実は、わかったではない。
 レジュメを早く終わらせることが目的ではない。どれだけ思考時間をかけたか、思考を重ねたか、どれだけ苦しんだか、迷ったか、その時間の長さである。
「わからない」という子の頭の中はどういう状態なのであろうか。
 「考えた」と言う。何時間も考えたと言う。しかし、それにしては思考の跡がない。ただじっと問題を見つめて、わからないから、居眠りして、また開く、また眺める、そういう子ならいくらでも知っている。
 ほんとうに考えたという子には、いい思考の跡がある。ほんとうに考えたんだな、という爪跡がある。わたしはその爪跡を見て、その子の思考のありよう、ありかを推測する。そこまで考えたのなら、一つ道筋を示してやろうかと思う。筋のいい子はわたしの示した道筋に感嘆し、驚き、さらに興味を強くする。つまり、次なるステップのヒントを確実に掴んでいる。教えを決して無駄にしない。
 そうなのだ。ワカッターマンは、他人の思考を消費する。使い捨てる。次のステップの礎にすることもない。知識の使い捨てをする。だから何度も同じことを説明することになるし、なかなか身につかない。新手の問題には手も足も出ない。こういう子どもを作ってはいけない。多くの塾が目先のプラシーボ効果を売りにして、偽薬授業で騙す。誰でも解ける問題の解き方パターンを覚えさせて、類題で練習させる。こういうのは、見たこともない問題はまず解けない。見たこともない問題に出会うと、「まだ習っていない」と必ず言う。つまり、解き方を習っていない、というのだ。解き方は習って使える、解き方が知識の問題になっている。これは大手にとっては好都合なのだ。解き方をたくさん知ってもらうために、さまざまな特別授業に出てもらうことができる。つまり大手は解き方を売る。商売がうまい。相手の勝手な思い込み、勘違いをうまく利用して商売を広げる。が、なによりも相手の不安を煽動して、助長して、商売する。それが受験産業だ。
 考える力をつけさせてから戦う。これが竹の会の受験戦略である。知識を増やすのではなく、思考を深める。受験というのは、思考だけで受かるというものでもない。基本的な勉強習慣、ぬかりのない生活、ともすれば楽をする方に流れる気持ちを律する心など他にも備えなければならない要件はある。合格する子というのは、そうしたすべての要件を満たす子なのである。ただ受験が終わって残る物があるとしたら、竹の会では、思考力だけは一生の力として残り続けるであろう。
 博学は身を助けるであろうか? 知識は身を助けるであろうか? クイズ王は危機に際して知識を検索して正しい判断ができるのか?
 物識り結構、しかし、論点はそこにはない。私たちは危機に際して、正しい判断ができるか、ここにある。知識を根拠にする判断の危うさは述べるまでもない。私たちは、事実を事実として客観的に見ること、事実を評価する際にバイアスを排除して正しく認識できること、思考を発動する際に、ここでもバイアスを排除して純粋に論理だけで推論できること、がもっとも大切な私たちの財産であるということを知らなければならない。決して知識が多いことではない。
 専門家というバイアスのかかった人間の主張が、専門家だから正しいことを言うという思い込みと相まって、私たちを誤った判断に導く。専門家というのは、実はその逆で、平気で嘘をつくのに、知らないことでも知ったかぶりをするのに、私たちは、肩書きに騙されて、嘘をを信じてしまう。権威主義は社会の至るところを侵食し、わたちを正常な判断から排除する。
 竹の会は、昭和60年10月開設の当初から、「考える」子どもの育成に心を砕いてきた。どうすれば考える子どもを芽吹かせることができるか、それはそれは悩み、もっとも効果的な方法を模索してきた。今の竹の会の方法はその苦悩の末に辿りついた、唯一無二の、わたしにはかけがえのない、珠玉の宝物である。
 今の竹の会の指導の評価については、現在の竹の会の子どもたちの親御さんたちから届いてくる声から痛いほど心を揺さぶられる。
 実際に竹の会のわたしの指導を受けて見なければわからない。わたしの指導を受けて初めて知ることになる。これまで知らなかった感動というものを知ることになる。わたしの指導を受けて途端に竹の会はほんとうにすごいと思った人がほとんどかもしれない。竹の会に入ったこともない、あるいは挫折して止めた人の誹謗とは全く真逆の絶対的な信頼が、内部の人たちにはある、ということを誰も知らない。
 今のわたしの指導が、神的であるということをわたしは実感している。休塾という指導の中断がもたらす、パーになる効果もわかりきっていた。少なくともわたしには竹の会がわたしの指導を龍の眼としていることを知っている。指導のない、つまり休塾は、画竜点睛を欠く。
 わたしの指導が、これまでの陳腐化された塾という形態、内実を、コペルニクス的に転回するもの、天動説を根底から覆すものであることを、竹の会以外の人は知らないし、知りようもない。感情的な推測を根拠に批判する人もいるが、内部にいる人たちからは、空疎な、中身のない、絵空事に過ぎなかろう。つまり、内部の人には、まったく馬の耳に念仏である。笑止千万とはこのことだろう。
 竹の会のまるで絵に描いたような学力の充実ぶりに、子ども本人はこれまでに信じられないような高揚感、今風に言えば自己肯定感を持ち、親たちは、なんと凄い塾なのかと、子どもの変わりよう、信じられない変化に、驚き、竹の会に感謝する親たちも多い。
 竹の会は、わたしの指導がなければ、画竜点睛を欠く。指導のないところで、家庭でやることなどない。仮に家庭でレジュメを進めても、実際に、その子が解いたという証明はない。保証もない。子どもは「自分でやった」と嘘をつくものである。しかし、家庭でやったと言って、合格ハンコを取ってきた子は必ず綻びが出る。新レジュメをやらせてみるとまるで解けない、模試で結果を出せない、それどころか最悪の成績を取る。とにかく、本人がやったと申告したことに対応した結果が出てこないのである。家庭でやって合格ハンコを取った子が受かることは決してなかった。ほんとうのことを神は流石に知っていた。
 
 

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