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竹の会の神様のこと

2019.01.25

本番まで 日 初日不算入本番の日まで

 おはようございます。1月は天候に恵まれました。乾燥した低温の空気がインフルエンザウィルスには絶好の環境となり、竹の会でも発症者が毎回のように出ております。受検生のみなさんに飛び火しないことばかりを祈っております。この時期の学校は危険地域です。27年1月、桜修館を受検した女子は、それはまじめな子で、1月27だったか、28だったか、とにかく直前も変わらず登校しておりました。それで突然38度超の発熱に見舞われました。学校で感染したことは明らかです。この時期の学校というのは、危険な所であり、感染の危険は常にあると覚悟しておかねばなりません。彼女は常にマスクをしていましたが、それでも防ぎきれませんでした。あえて学校に行くという選択も危険を選択しているという認識だけはもっていたほうがいい。彼女は本番当日もいったん下がったはずの熱がぶり返し、辛い思いで受検しております。幸い合格することができましたが、わたしの胸は発表の日まで痛みました。

🔵竹の会の神様のこと

 
 「先生、ぼくは、神なんか信じませんから、別にいいですよ」と言ったのは、ある年の桜修館受検生。
 そうですね。わたしも神とか、仏とか、信じていない。だから、それはそれでいいのです。彼が、落ちたのが、お賽銭の五円を渋ったからとは思いません。
ただ竹の会には、昔から、神棚があった。これはもともと自宅だったマンションに祀られていた神棚。竹の会を始めたときは、その住居の一室を教室にしていた。そのうち手狭になり、住居すべてを教室にした。その時から、教室に神棚が祀られている状態になった。誰が始めたのか、確か平成10年の受験が近づいた前年の12月には、生徒たちが、誰彼となく、神棚に、そう最初は、一円玉を投げ込んでいた。そのうち5円、10円、50円、100円、時には、500円硬貨まで、あった。わたしは、いつからか忘れたが、賽銭箱を用意して、置いた。この習慣がいつ頃から始まったのか、わたしには、もう記憶がない。今の賽銭箱は、総檜造りの高級品で、三代目、二代目は同じ総檜のやや小振りのものだった。初代は、いかにもオモチャという外観の、神社にある賽銭箱のレプリカだった。賽銭は、子どもたちの心の化身のように思えて、もうずっとそのまま、中を見たこともない、子どもたちの思いの詰まった箱です。

 わたしも、これまでの竹の会の奇跡の合格はきっと竹の会の神さまのおかげだと、なんの根拠もないのはもちろんですが、感謝してきました。竹の会の神様は、わたしの便宜的な感謝の対象だったのかもしれません。
 こんなこともありました。竹の会には、縁起物が、所狭しと並べられていますが、その中に七福神の置き物がありまして、もうかなり古い、いつ頃からあったのかも忘れてしまった。この七福神を26年の受検の前に片付けてしまった。26年は、3人受けて全滅。それでまた箱から取り出して並べた。それで、すぐ都立駒場の合格があって、何故かホッとした。いやいやわたしは素朴科学を信じてはいません。神社のお祓いとか、お坊さんのお経とか、をありがたがる、仏像崇拝とか、そんなのはありません。でも、大衆が大切に思うものをとやかく言う気はないし、わたしは距離を置いて眺めている。側に寄らないようにしている。そういうことなのです。信じるか信じないか、自由ですから。
 27年の合格者は、38度の熱が下がりきらないままに、本番に突入し、「きっと竹の会の神様が助けてくれる」と信じて、頑張ったと体験談に書いています。
信じる者は救われる、これは神がいようがいまいが、真理です。神なんか信じないという人は、何かを信じないという一点で、弱い。神を信じないというのは構わない。が、こういう人は、信じない、という精神が、独り歩きして、神を信じなくても何かを信じるという普通の論理にはならない。神を信じないということがまるで内容のある価値観かのように独り歩きし、そこから「信じない」という分身が、また独り歩きする。だから自分を含めて何も信じない、という心理に支配されているのが往々で、だから弱い。ゲームに溺れるのも、何かに囚われて、我を忘れるのも、半信半疑という曖昧な姿勢のためである。人間が、強いのは、何かを信じるときです。信じることが、精神を強くする。こういう人は、結局何かを信じることができない。例えば、7回解き直しをやれと言われても半信半疑、中途半端に終わらせる。課題の効果を説かれても半信半疑、結局、やらない。夏7時間の勉強をと言われても、怠惰半分、半信半疑半分で、やらないのは同じ。勉強さえも、半信半疑で、竹の会にも半信半疑ということにさえなる。信じるというのは、行動を生む、行動こそが生きるということにほかならない。だから信じられないということは、教育的には、失敗である。
 だから、とにかく難しいことは言わないで、鰯の頭も信心からというのは、まず信じることが、不可能を可能にする、第一歩という教えである。
だから、妙に、価値観なんか出して、難しいこと言わなくていい。小学生、中学生は、素直に信じる、そして素直に先人の教えに従う、これが失敗しない、一番いい方法なのです。
自分の未来を信じて一生懸命に努力する、先人の教えに素直に従うのは、賢い人間の知恵です。

 鈴木君が、立教新座合格、早実商業合格、早実普通合格、慶應一次合格と快進撃していったとき、彼の席が、ちょうど竹の会の神様の真下だったことで、席の争奪戦が、あったことを思い出します。お賽銭箱も当時は適当なもの利用していただけだったのが、たまたまハンズで見つけた、神社仕様のレプリカを見つけて、早速購入して格好がついた。今使っているのは、総檜造りのもので、総檜としては三代目で、二代目よりはかなり大振りで、何万円かしたものです。二代目檜は、今も子どもたちの願いをそのままに静かに眠っています。「1円玉は、入れないで」と言うのは、かつて子どもたちが、1円を入れていた箱から溢れて富士山を築いて困ったこと、檜の賽銭箱を一円玉であっという間に満杯にされるとたちまち使えなくなるからです。実は、この賽銭箱には、開け口がない。完全密閉なんです。開くには、この数万円もした賽銭箱を壊すしかない、のです。
 神を信じるとか、そういう大きな問題にして、構える必要なんかない。あなたたちは、父の死、母の死に遭遇して、ただ無心に、手を合わせて頭を下げるでしょ、それが自然な振る舞いなんです。鰯の頭とかいうことでもない。父、母への湧き上がる感謝の念がそうさせる。父と母、わたしの長い歴史、すべてが詰まった感情の歴史、そういうものへの思いというものがある。そっと頭を下げる、「父さん、母さん、ごめんなさい」、そういう思いで、ただそれだけなんです。信じるというのは、そういうことなんです。決して◯論や価値観を振り回すことではない。
わたしは人間の、五感でこの世を感じる、感覚を大切にしたい、そう思っているだけです。

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