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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

竹の会指導の原点

2020.11.17

 

◎竹の会指導の原点
 竹の会は昭和60年10月の開設であった。最初に集まってきてくれた子たちは、代々木中の2年ばかり。その子らが、昭和62年2月に、竹の会初めての受験に臨んだ。最初の年に、青山学院高等部、市川高校に合格させて幸運なスタートを切った。都立は、駒場、都立大附属、目黒などに受かった。あの時から、わたしの試行錯誤に満ちた、受験との戦いが始まった。それまでに、家庭教師の経験しかなかったけれど、わたしの指導の原点は常に、わたしの高校受験、高校の授業、大学受験の経験にあった、と思う。
 今ある、竹の会の指導のすべての原点は、わたしの暗い受験時代にあった。
 わたしは、中学時代は、級友や周りの人たちに「秀才」と言われてきた。高校は、県下の進学校御三家の一つに進学した。進学校の授業はわたしには合わなかった。しかし、わたしは、落ちこぼれていくなかで、最低旧帝大だけには行かなければならないと心に決めていた。だから数学や化学など将来の受験科目だけは将来何をすればいいかを押さえた。英語には、無念の気持ちが強く、わたしは、高校卒業後、やり直す決意をしていた。進学校の授業の中で、わたしの心をずっと捉えていたことがあった。進学校では、毎回、授業のたびに大量のプリントが配られた。教科書よりも、とにかくこのプリントのほうが大切なのだとわかるまでにかなりの時間を要した。まず教科書を理解するという、わたしの中学からの信念がそもそもの失敗だった。数学、英語、古典、化学、生物、物理とプリントは溜まっていくばかりであった。もし風邪をひいて休めば、プリントはもらえない。級友が責任持ってもらっていてくれるというほど進学校の連中は甘くない。他人のことなど考えてくれる人間などいない。先生にもらいに行ってももう「わからない」と言われて、終わりだ。わたしがやる気をなくした一番の原因だった。中学と違って進学校は授業はしない。プリントか、問題集を配って、出席番号順に問題を割り当てる。生徒は、授業が始まる前に前と後ろにある黒板に答案を書いていく。授業が始まると教師が答えをチェックしていく。生徒はその間ずっと手を動かして黒板に書かれた答えをノートに写していく。教科書の説明なんてほとんど聞いたことはない。自分で読んで理解しろ、である。また、最初、わたしは、どうしてみんなプリントの答えがわかるのか分からなかった。考えてもわからない問題ばかりだったからだ。しかし、そのうちその理由がわかってくる。みんなガイドやチャート式といった参考書を揃えていたのだ。教師のネタ本を知っていた。わたしがあまりにも世間知らずだったのだ。学校で教わったことさえできればいいと牧歌的に考えていた。ところが、学校は何も教えてくれない。自分でやれ、と言っていたのだ。自己責任なのだ。わたしはそれに気づくまでにずいぶんと時間がかかった。
 後々考えて、進学校というのは、プリントが勝負だとわかった。プリントをマスターしていればよかったのだ。これは3年のとき、数学IIBの定期試験で、配られていた数学のプリントを、何枚あったか忘れたが、何回も見直して、落ちこぼれのわたしが、90点近くを取ったことがあったことで、確信した。あの試験は、国立コース落ちになるかの試験だったので、かなり真剣だった。
 指導者というのは、「これ」という知識をプリントで与える、そういうことなのか、と悟った。
 後に独学で勉強をしたとき、網羅的にやるという過ちを犯した。その後、重要な点に絞った勉強、つまり、「捨てる」勉強に落ち着いた。指導者が、重要点を拾うのと、受験生が拾うのでは、まるで違う。どうしても無駄が多い。
 後年、レジュメ指導を考えたとき、重要点の抽出には、概観的、鳥瞰的視点が不可欠であり、相対的視点から、「選ぶ」、つまり他の問題を「捨てるを」ということをやるようになって、あの当時、自分が自分のやり方しか信用しなかったことの愚かさを悔いた。
 レジュメ指導の精神的背景には、わたしの進学校時代の負の遺産があった。わたしは、あの頃のプリントに価値を見る。憧れた。一枚のレジュメに、本当に大切なことを託したい。レジュメをやれば、他は捨てていい、そういうレジュメを作りたい。だからわたしは本を読み問題を解き夢中で勉強した。
 プリントと言わないで、なぜレジュメと呼んだのか。これにはまたわたしの思いがある。わたしはある時期資格試験の予備校LECで講座用の問題を作るアルバイトをしていたことがある。あの当時、問題を作り、解説を作るのを1セットとして、一つの請負仕事として、報酬をいただいていた。問題を一つ作るのは大変で、判例を探し、学説の分かれる問題について、争点を問題にした。事実の創作である。この仕事は、論点ごとに、必ず根拠をつけなければならなかった。根拠は、通達、判例がまず一番で、学説では弱い、これは実務の問題だからである。あの時の経験が今のわたしのレジュメ作りの基盤になっている。LECでは、レジュメと呼んでいたので、自然わたしもこの呼び方をするようになった。プリントと呼ばないのは、そこに深い思い入れがあるからである。
 わたしはこのアルバイトを長くはできなかった。塾の仕事に追われていたからだ。
 竹の会のレジュメ指導は、レジュメで取り上げなかった問題は「捨てる」という覚悟がある。それは真贋の判断にも似た緊張感のある瞬間でもある。もともと網羅主義、完璧主義を排除するとい動かし難い信念が根拠にはあった。人間は完全ではあり得ない。重要なもののみを体系化するのは、本来人間の本性に適うものなのである。
 ほかならぬ、竹の会のレジュメ指導とは、重要なもの、いやより本質的なものにのみ絞って、他は捨てるという方法です。いわば「捨てる」指導です。だから「捨てる」技術が重要になる。
 「捨てる」というのは、実は、失敗を本質的に内蔵する人間には、必要な、どころかこれしかない方法なのです。いろいろ捨てて真に必要なものをのみ取る、そのかわり真剣です、全集中です。
 重要点を拾っていく、そしてその余の事象は蓋然性で推測する。
 何もかも正確に知らなければダメかというとまったくそういうことはない。ポイントだけ押さえて、あとは勘、それでいい。勘と言っても重要点から論理で推測する、確実性はないから、勘と言ったまでの話しだ。
 いいですか。正確性、確実性などは求めても仕方ない。私たちは、蓋然性で判断する。試験は満点取らなくていい、相対的な争いだ。
 私たちは天才ではない。天才なんて全体の1%だ。もともと試験は凡才の争いなのだ。
 最初から網羅主義、完全主義など土台無理なのだ。そもそも当局はそんなことを求めてはいない。
 当局は、なんらかの思惑で、こういう人がほしい、そこからこういうことが聞きたい、と思っただけだ。当局が最初から完全な知識のできあがった人を求める、そういうことはない。ありえない。
 私たちは、当局が何を求めているか、まず試される。試験と言えばこれが試験だ。捨てる? 捨てればできない、そういう恐怖が、人を知識の狩人と化す。知識の迷い道に駆り立てる。知識とは、一歩間違えば、転落の囮だ。
 私たちは、予め知識を完全にしなければ受からないと思い込む。だから知識を完全にして、受けようと頑張る。
 しかし、最初から、戦略が的を外れていたのだ。試験とは、相対的な優劣で勝者を決める、もともと完全なんて想定していないのだ。
 ここまでやったら勝てる、そこで止める。 
 過去問は、出題者の意図を探るのに、有効であるが、万能ではない。過去問を解く、何回も解く、こういうことをやる親子が多いが、過去問がまた出るとでも思っているのか。似た問題が出ると思っているのか。そうではない。過去問はもう二度とは出ない問題のリストだ。
 私たちは、過去問から、何を捨てたらいいのか、を知る。勉強する必要のないところを知る。しかし、何が必要か、はわからない。何が出るかなどわかるはずがない。
 

 さて、こうして進学校のプリントを思いおこしてみよう。
 
 勉強とは、何か、潔く捨てることだ。
 ただし、何を捨てるか、これで成否が決まる。試されているのはここだ。試験は、何を捨てるかを試している。
 知識は最低限度でいい。
 本番で、考えることで、切り抜ける。
 考えるというのは、知識を万能と考える完全主義を否定する立場だ。
 知識は最低限で、身軽にして戦う、それが試験に勝つ、最強の方法だ。
 戦いの場では、考えるのだ。知恵を使うのだ。決して過去に縋るのではない。過去の知識に縋ろうとした途端に思考はストップしてしまう。なにしろ想い出すという作業は、思考のスイッチを切断しなければ繋がらないようにできているからだ。
 竹の会のレジュメ指導は、畢竟この立場に立って、進学校のプリント指導と同精神、というかそれに倣って、重点指導をするものだ。それは思考の働き方を訓練するに最適の方法なのだ。知識を追わない、与えられた重要知識を考える、それだけにかける、これこそ試験の方法の極致ではないか。
 自分で考えてあれこれ網羅的にやろうとすること、これが最初から破滅の竈に身を投ずるものだということを知らないのが怖い。わたしは、よく中学生が市販の参考書を持ち込んで勉強しているのを見ると、この子の行く末が手にとるようにわかり、斬鬼に耐えない。そういう子の末路を一瞬にして見てしまう。竹の会に来ていてどうして竹の会の重点レジュメだけに賭けないのか、わたしにはわからない。その答えは、すぐにわかる。成績が証明してくれる。なぜそんなことがわかるのか、そういう子をずっと見てきたからだ。
 本番が近くなるにしたがって、頭は空っぽにしておくのがいい。よく凡人は、直前まで詰め込む、家庭教師の時間を増やして、新しい参考書や問題集を買い、直前までジタバタ、ドタバタする。わたしはこういう人たちを、泥縄泥次郎一家と呼びたい。
 直前期の過ごし方は、セーブされた緊張感、これまでやってきたことを静かに、ゆっくりと見直す、パラパラとめくるように、心静かに思考を反芻する、家族とは必要なこと以外場話しをせずひたすら緊張感を保つ。よく大晦日やお正月にテレビを見たり、ワイワイ騒ぐなどの人がいますが、緊張が飛び過ぎです。一旦崩れた、緩んだ緊張感はもはやもとに戻ることはない。あるいは意味もなく友人と会えばおしゃべりが止まらない、これなどは不安の裏返しであり、友達だから開放感が半端ないのだと思うけれど、緊張感はこれで飛んでしまう。
 直前期、緩んだら負けである。直前期ワイワイ騒ぐ者、おしゃべりする者、和気あいあいな仲間たちこういう子は受からないことになっている。
 直前期は、大きな敵の差し迫る緊張感、不安感から、恐れ、自然と無口になるものである。試験は一人で戦うしかない。誰も助けてはくれない。なら、極限までに己を追い込んで、孤独に耐えなければならない。戦いとは、孤独なものである。依存心をゼロにして、頼れる者は己のみという覚悟のほどが問われているのだ。
 

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