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竹の会渋谷教室渋谷Bという選択

2015.12.15

 おはようございます。師走の15日、午前6時の気温10℃、比較的暖かい朝です。日曜日の指導が終わってから月曜の朝まで次の「適性問題Ⅲの研究」の案を練る、いやネタを探してあれやこれやと過去問をめくったりで、なかなかいいものが見つからずに「もう、ないなら止めようか」と絶望したりしながら、ふと目にとまった問題を斜め読みして、「うん、いいかも」と気を取り直して、明日の朝もう一度読み直してみることにして寝ます。朝起きたらさーっと読み返して、「よし、これで行こう」と、パソコンを開いて、まず草案を作ること、2時間、3時間、それから印刷して、渋谷Bが始まる前の時間を利用して、解きます。難易度を測り、解説の原案をさらさらとメモして、明日は仕上げというところまでもっていき終わります。水曜日の指導になんとか間に合いそうです。渋谷Bのある日は、始まる前2,3時間、作文の添削をしたり、課題レジュメを採点したり、ですね。竹の会渋谷教室がスタートしたのが、2012年の5月6日でした。このときは、元代々木教室とのかけもちで大変でした。元代々木教室を7月20日頃でしたか、閉鎖し、夏休みは、AとBの生徒合同でした。9月から12月までは、渋谷教室にAとBとが併設されましたが、年が明けてAのみに一本化しました。

 それからBというのがなくなっていたのです。そのBが今年の10月に換骨奪胎して再スタートしました。Aが本科コースとしたら、Bは予科コースというところです。

 なぜ今Bなのか。

 それは、まず、竹の会の指導というものをできるかぎり多くの小学生、中学生に体験してほしいと思ったからです。特に、小学生については、わたしの経験では、そのほとんどが基礎ができていないままに中学生になってしまうという現実があります。この事情はかなりに複雑です。

 まず、塾に行かない子というのは、致命的な状況です。もともとできない子はそのまま底辺を這うことになる。中学から落ちこぼれ、高校は最低の高校におそろく無試験(単願)で行く、そして満足に勉強もしないで社会に放り出される、その後どういう人生を歩むことになるのか、今の日本社会なら推測に難くないでしょ。それならそれなりに優秀な子が塾に行かないとどうなるか、です。元代々木教室の時代には、それまで塾を知らないという子によく出会いました。学校では「できる子」なのに、つまりせっかくの能力をもちながら、計算力もない、割合もできない、思考スタイルなどほど遠いという子ばかりでした。こういう子は訓練すれば中学では成績もいい、都立のいいところへ行ける子たちでした。それが小学に塾に行っていない、それだけの理由で中学でも先が見えている、そういう子がたくさんいました。

 塾ならどこでもいいか。世の中には本物の塾が少ない。学科を「教える」という枠から抜けられない個人塾ばかり、中手塾は大学生講師に任せきり、お仕着せのテキスト授業でしょ。大手はいけない。ありゃー中身は空です。大手というのは、実は、もともと教える必要もない天才を集めれば、つまり実績をつくれればいいのです。一握りの天才さえ集められれば、後はチラシをまくだけでバカな親が中途半端にできる子どもをつれてやってくることになっている。こういうのは、塾には行っていても、ダメです。使えない。かつては四谷大塚や日能研で落ちこぼれた受験生がよくきたものでした。みな大手の毒がまわっていた。思考しない人間に改造されていた。習ったことのある問題には滅法早く紋切り型の答えを書くけれど、見たこともない問題に出会うと固まる、それで「考える」ということがわからないので、すぐ訊いてくる。

 わたしは、この東京に「考える」ということを育てる塾がほとんどないことが不思議でしかたない。「教える」というのは限界がある。問題がわからなければまず自分で解けるまでの思考力をつけてやる、それで自分で解かせる、それがいちばんいい形というか、いいおさまりかたなのである。とはいってもすべての子どもが考えるスタイルを獲得できるわけではない。バカはバカのままである。わたしが嘆いているのは、本来磨けば中学でトップクラスに行けるであろうはずの子たちが、その能力に目覚めることもなく沈んでいってしまっていることである。

 竹の会にきて竹の会の指導を受けてみればすぐにわかることである。一度でも竹の会の指導を受けた子は本能的にその真実の価値を悟るようである。もともと優秀な子の親御さんというのは、ここまで素晴らしい塾であるとは思っていなかった、予想をはるかに超える素晴らしい塾でした、という感想を言われる方が多い。他方で、大手の塾を選択したがために1年後伸び悩み壁に突き当たったという、もともとは優秀なお子さんの話も耳に入ってくる。まず大手というのは、虚構に過ぎない。何人合格しましたなんか、信用ならない。何百人「落ちました」というのが真実のはずなのに、一部の天才の活躍をあたかも大手のおかげてと言わんばかりに誇張、誇大広告する。わたしから言わせればもっとも信用ならないのが、大手である。いやもともと東京にどれだけ信用できる塾があるか、ということである。東大生の講師が本当にいいのか、ということである。学生アルバイト講師でいいのか、ということである。大手の中には学生アルバイトしかいないところもある。「教える」ことが大好きな学生が教えてばかりで、子どもを疎外する。

 わたしは、竹の会の指導というものをもっとたくさんの本当の勉強というものを知らない小学生に知ってもらいたいと考えたのです。それが渋谷B、今の渋谷Bです。Bに来てみれば少なくとも竹の会の素晴らしい指導というものを知る機会に出会える。中には、より本格的な指導、つまり渋谷Aに進むことを希望する子たちも出てくるかも知れない。

 渋谷Aというのは、長時間指導という、小学生ではかけがえのない体験を通して、じっくりと考えるスタンス、つまりは勉強のスタンスを手にすることになる、システムとして完成している。大切な家庭学習を習慣化することになる。

 渋谷Bはとにかくも竹の会の指導というものを味わうにはいい機会です。教材はAと全く同じです。時間が、月2時間、金2時間と少ないだけです。指導の機会が少ない、だからゆくゆくはAをめざしたほうがいいけれど、とりあえず竹の会という塾を体験して、少なくともバカ小学生のままに中学に行くことだけは避けられるということです。

 日本の社会は、行く高校から人生の振り分けが始まっています。トップ都立高校に行ける子、その中からさらに一流と言われる大学に入れるか、さらには大学でどれだけ勉強したか、が問われる。国Ⅰや難関資格をめざす人たちもいる。大手企業に入る人もいる。慶應の理工、早稲田の理工を出て、中小のベンチャーに行く人もよくいる。

 都立戸山や青山に行った中学時代の超秀才の多くが、大学はマーチ止まりだったという例ならいくらでも知っている。いやいや待てよ、大学は早稲田、慶應というのに、まともなところに就職できないでフリーターやってるという人もいくらでもいる。マーチから難関資格試験に合格する人だってたくさんいる。だから、わたしの言う進路は蓋然性の問題を言っているだけである。要は、最終的には、その人の努力の問題ということである。だから進学などというのはまずはおおまかな振り分けにすぎない。その大まかな振り分けにおいてまずはいい道を選んでいく、そういうことです。

 渋谷Bは、今なら比較的入りやすい。入会試験はあるけれど、決して学科試験ではない。本来の眠れる知能を測る試験です。今の渋谷AならA合格者が理想ですが、渋谷Bでは、そこまでは求めていない。主旨は小学生の眠れる能力を引き出すことにあるからです。竹の会の定評ある指導というものを是非体験してください。

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