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公立中学という炙り出し装置

2020.12.18

 

◎公立中学という炙り出し装置
 中学が子どもの真の姿を炙り出す装置としてさながらに子どもの実体を曝け出すのには驚きとともに公立制度とはなんとも見事な制度設計なのかと感嘆するばかりである。
 公立と私立に行っている生徒の差はそのまま親の差でもある。高い授業料を払っているという意識はそのまま勉強意識にも反映される。ただ私立と言っても大学附属と、進学校では、自ずと違う。前者では、当然ながら勉強に目的意識がなくなるのが勢いだからまともに勉強する子は少ない。後者は、学校がそもそも受験第一を目標にしているのだから、公立とは明らかに異質の存在である。部活で勉強を犠牲にするという観念は、親にはないのが普通だ。
 ところが、公立というところは親たちにそういう受験ないし勉強第一という意識があること自体が必ずしも一般ではない。それどころか、部活を絶対優先するという親が少なからずいる。また教師の方も公立の教師というのは勉強には一切責任は負わないから好き勝手である。少なくとも進学系の私立の教師に勉強を蔑ろにして部活を強要するような輩はいないのではなかろうか。公立の教師、特に体育教師ほど無責任な輩はいない。いや中にはバランスの取れた先生もいるのかとは思うが、わたしが子どもたちや親と接してきた話しは理不尽な教師ばかりであった。
 公立というのは、勉強しなければしないでも何の問題なく過ごしていける。なにしろ義務教育を実践するところだから、学校としては通ってきてくれればいい。公立中学で成績を気にしながら勉強するのは、全体の2割前後ではないか。
 さて、そういうところに子どもを通わせるというのはどういうことなのか。
 35年にわたって子どもを見てきた結果、公立中というのは、子どもの本性をそのままに反映する、曝け出すところなのだと思う。
 誰も何も言わなくても公立という制度が、子どもの生来もつ本性をさながらに曝け出す。
 怠惰な人間、怠け者は、怠け者の性情をさながらに曝け出す。部活は往々にして怠け者の大義名分となる。この大義名分は時として親をも黙らせる。勉強しないという不作為がそのまま日常的に黙過されるところは公立をおいてない。が、しかし、その不作為の蓄積がいずれ本人、ひいては親たちを追い詰めることになる。勉強しないという不作為は、時として本人を苦しめ、追い詰めていく。

 無気力な者は無気力なままに過ごす。それで一向に困らない。生徒は無気力でもそれが理由で学校に来るなとは言われることはない。なにしろ義務教育だから通っていれば問題ない。部活を遅くまで頑張ってもそれで教師は勉強が疎かになると心配してくれることなどない。教師の本音は、あんたらが、勝手に卒業して、どこでも行ってくれればいいのだ。公立中学の教師に責任などない。不良になって暴れても学校はただの通過点に過ぎない。
 私立のように退学などはない。
 勉強熱心な者には、これほどやりやすいところはない。なにしろ8割が勉強しないのだから、勉強に集中すればそれなりの内申はもらえる。
 公立中学というのは、勉強しなくても生活には何の影響もない。授業を乱しても先生は強い態度を取れないから生徒も調子に乗って騒ぐ。真面目な生徒は先生の声が聞き取れず、迷惑であるが、だからといってなにか対策が取られることもない。要する、やりたい放題が野放しのままである。

  ただ、教師には伝家の宝刀内申制度がある。教師は内申を餌にして親、子をコントロールする。少しでも内申をよくしようと思う生徒は教師に、学校に従順でなければならい。親も子も教師に阿る。これが教師を勘違いさせる。横暴な発言をする教師が出る所以である。
 公立中学というのは、子どもの悪い地がそのまま出る。
 小学の時にすでに、その地があるのだ。それが公立中学では、そのまま出てくる。
 小学で字が汚いというのは、ノート型の勉強スタイルが取れないわけで、それはそのまま中学における勉強の破綻へと繋がります。ノートが取れないというのは、記録を残すことができない、ということです。また、問題を考えるときに、記録を取りながら考えることができないということです。
 小学のときに、わからなくてもなんとか真似でしのいできた子は中学ではもはやその方法は使えません。なぜなら中学は定期テストで定期的に学力チェックが入るからです。怠け者たち、部活逃亡者たちが慌てるのはこのときだけです。
 小学のときにもともと地頭がなければ、小学では誤魔化せても中学ではもう無理です。
 小学のときから勉強しない子はたいてい中学でも勉強しません。
 小学のときから消極的不作為、つまり勉強をやり過ごしてきた、あるいはその傾向のあった子は中学でも同じです。
 中学の兆候
 中1でまず洗礼を受けるのは、方程式の文章題でしょう。ここで方程式が立てられない子は、高校入試で成功することはない。なぜ立てられないのか。地頭なのか、記録が残せないからか、原因はたいていそんなところですが、ただそれほど簡単でもない。というのは、小学のとき、地頭がないと思われた子が、中学になって開花する例を少なからず目撃してきたからだ。ただそういう子でも方程式の文章題で詰まることはなかった。だからそういう子たちがほんとうに地頭がなかったのか、わからない。そういう子は類稀なる努力家であり、律儀さ、真面目さにおいて出色であったように思われる。こういう子というのは、やはり小学時代から真面目で正直で素直であったことがさながら中学でも真面目で正直で素直であった。
 公立中学というのは、2割の勉強に関心の強い子と8割の勉強に関心のない子を、見事に振り分けるシステムである。それは、ひとまず2割の人間を選ぶ、8割の人間を社会の低層に流し込む、そういうことをしれっとやっている。
 もちろんこれは大まかな思考である。実際は、2割層から落ちこぼれる者、8割層から這い上がる者、が、少数ながら出る。
 都立トップ層に行ったからといって全員が社会の上位層へと取り込まれるわけではないことはあたりまえである。要は、蓋然性の話しである。それだけ蓋然性が高い、低いの話しである。
 公立中学というのは、公立を選んだ、公立に進むしかなかった、最低限の道が公立だった人など、ある意味社会の縮図である。優秀な者は、粗方私立難関中学、そして今は、都立中高一貫校で、抜けていく。が、紙一重で落ちたという人、大器晩成型の人、もともとの天才ながら受験に関心がない、都立トップしか考えてない人、そういう人たちが、2割層のさらに2割層を形成する。つまり公立中学には、一握りの天才群が生き残っている。
 こうして、公立中学は小学で取り残された人たちの縮図をさながらに現出する。
 竹の会では、高校入試生は中3になると1名いるかいないかである。中1のときは2ないし3名いても中3までいる子は限られている。たいていは中1の途中で消える。これはしかたない。公立中学の2割、そのまた2割が、トップ都立に入れるという実態、裏から言えば、公立中の8割の生徒が勉強を遣り過ごす、不作為で済ます、部活に明け暮れるのであるから、もともと塾で勉強するのも剣呑なことに違いないからである。自分は勉強に積極的な姿勢はなく、ただ他人がなんとかしてくれる、そういう意識の中学生ばかりだからである。勉強というのは他人がなんとかしてくれるものではなく、自分がなんとかしようと取り組むものだということがわかっていない。それは結局小学からの本性の表れに違いない。

 

 

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