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脳に負荷をかけないとどうなるか

2022.06.30

脳に負荷をかけないとどうなるか
 
 宇宙飛行士は、宇宙空間(宇宙ステーション)に滞在中に、骨が、脆くなる、のは、今では誰でも知っている。古代ローマ時代、奴隷労働者は、重い石を抱え運んだ。だから骨は硬く、筋肉もついた。もっとも栄養を摂っていればだけれど。
 脳の場合も、使わなければ、痩せ衰えた筋肉と同じだ。脳を使うとは、「わからない」という負荷をかけることである。人間というのは、わからないことは考えない、回避する傾向がある。それが楽だからである。そうなのだ。人間というのは、基本的に「楽を、したがる」本質を持つ。当面の楽を優先させる性向が強い。脳を使わないというのは、楽なのだ。何か問題が発生すると、まず人間の考えることは、これは日常の範囲内のことだ、だから特に問題にすることはない、と考えないことにすることだ。私たちが日常こなす仕事は、特に、悩むこともなく、脳に負担をかけることもない。
 三陸の津波のときも、津波警報が出ても「いつものことだ」と信用しなかった人が大勢いた。これを正常性バイアスという。
 正常だというのは、日常の範囲内にある、だから考えない、ということだ。飽くまでも脳に負担をかけたくない心理の表れだ。
 脳に負荷をかけない、これは考えない、ということだ。すぐ説明を求めてくる子、「わからない」と投げ出す子、考えたのではなく悶々と問題を眺めていただけの子、「からない」という負荷に耐えられない子たちである。
 わたしは、よく「算数はまず事実を図に表せ」と呼びかける。式だけ書いてくる子は、問題の難度が上がるにつれて対応出来なくなる。図に事実を正確に表すというのは、分析力、鳥瞰把握力が求められる。図を問題事実に即して正確にかける子は、逆に、言えば、図を、見れば問題が再現できるということであるが、そういう子は、確実に、脳に負荷をかけている。というか、式だけで解けている子というのは、わたしはすごいな、と思う。わたしには、できない芸当だからだ。しかし、式だけの子というのは早晩壁に突き当たる。伸びないのである。あるレベルまで、それもそんなに高くないレベルで止まる。だからわたしは、「図をかけ」と言う。
 公立中高一貫校型の大手塾に行っている子というのは、脳に負荷のない問題ばかりを解かされて、親も「うちの子に合っている」と喜んでいるところがある。しかし、宇宙空間の飛行士のように、脳に重力をかけないままに一年二年と過ごせば、脳はスカスカ、いやフニャフニャになるだろう。
 都立中というのは、倍率8倍の世界である。今では、早稲アカサピの上位にいる連中が参入してくるのが、あたりまえになっている。もともと難易度の高い内容をこなしていなければ戦えなかったのである。親が勘違いしていたことを悟るのは、受検の6年になってであろう。
 怖いのは、この情報過多社会で、若い親たちが、考えない、ただ与えられた情報の中から選ぶのを自分で考えると勘違いしていることである。そして、インターネット、テレビなどで洗脳され、感化され、多数が「選ぶ」ものに収斂していく、つまり、脳の均質化の始まりである。
 竹の会に他塾から来た子たちが、まず竹の会の指導に驚き、親子が、「もっと早く来ていれば」と決まって言うことをご存知あるまい。あなたたちは、塾というものを知らなさ過ぎる。大手のパンフレット、施設、テキスト、カリキュラム、講師、授業、テストといった総合システムに呑み込まれ、たいした効果どころか、下手をすると害しかないのに、高いカネを払って、一年二年と過ごすことになる。そういう子が、竹の会に来て、計算も未熟、割合も無知、考える姿勢、勉強のスタンスもない、そういうことがたちまちあからさまにされる。親はその時になって初めて、それまでの愚行を悟る。私は別に大手の悪口を言っているのではない。そういう誤解をする人がいるが、そうではなくて、あなたたちが信頼する大手に一年も二年もいて、そんな子ばかりなので、いったい大手という大掛かりな組織で何を学んできたのか、といぶかっているだけである。わたしは、今は、中学受験は、やらないが、それは理科、社会にまで指導の手が回らないからということもあるが、公立中高一貫校受検のほうが、面白いということが大きい。都立中高一貫校は、思考力勝負で勝てるからだ。覚えてきた知識を思い出す、そういう試験ではない。だから、理科にしても基本的というか、重要とされる知識は当然知っていることを前提にそこから推理させる、そのとき常識性というものが、問われている、のだと思う。また、都立中高一貫校は、計算、特に、小数の割り算が正確に処理できることが前提となっている。何億桁の統計数値を百分率で表す、しかも、概数処理する、だから計算が不正解なだけで振り落とされる、制度試験になっている。
 分数というのは、割合の象徴であり、全ての割合の考え方は、この分母と分子からなる、分数の定義形で、語り尽くされている。%というのも、よくよく見れば、○分の○、つまり、分数を斜めにしたものである。つまり、%は、分数なのだということだ。
 割合というのは、分子が比べる量、分母が元にする量ということであり、%というのは、分母が、1の場合の、分子のことである。例えば、20gは50gの何%というときは、まず、20/50 の値のことである。この時、50を1としたら、20はどうなるか、20÷50=0.4 つまり、0.4/1 つまり、40/100 から40%ということである。
 割合というのは、要するに、分数で表した、別の表現というだけのことである。
 竹の会では、徒に、負荷をかけるという論理で、子どもに無理を強いているわけではない。子どもに難しいからと、すぐに短絡的に、竹の会を知りもしないで、外部の人が誤解した想定を前提に竹の会を批判するが、事実を知らない人に批判の資格はない。
 竹の会は、小学生ならやらなければならないことをやっているだけだ。大手塾がいいという人は、一年も二年も通って、割合の基本的問題も解けない、という事実をいったいどう考えているのであろうか。やるべきことをやらないで、その子には難しいからと易しい問題ばかりを解かせて、しかも解き方を覚えることに力を注ぐ、わたしにはわからない人たちである。
 竹の会は、脳に負荷をかける指導をする。しかし、負荷の程度はみな違う。個人個人バラバラだ。しかし、小6になれば、受検のレベルに達するために、かなりの負荷をかけなければならない。この段階でレジュメを積み残すとしたら、それはもはや才能の問題である。都立中は、才能がなければ受からない。レジュメをこなせるだけの才能がなければ落ちても仕方ない。
 家庭で「解いた」と持ってくる子は不思議と受からない。竹の会では、上級レベルになる「超速解」を土日で終わらせた、という子がいたが、それだけの能力があれば余裕で受かりそうだけど何故か受からなかった。これまでにも、家庭で「解いてきた」という子が、多々いたが、何故か、模試の成績も悪く、受かることはなかった。教室で、それほど時間をかけなくて、合格ハンコをとりながら、リズムよく進める子、つまりは、わたしの目の前で解いた子でなければ、信用できない。そういう子が落ちたことは決してないからだ。
 受かる子は私の目の前で解く子以外はない。

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