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盲人像を評す

2022.08.05

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 もう8月となりました。また今年の夏も新型コロナが爆発的に感染しております。少し様子が違うのは、去年と比べて軽症感が漂うことです。竹の会の子たちやその家族のみなさんにも感染者が出るようになったことも今年の特徴です。わたしも子どもたちひとりひとりと対して指導するため、常に感染のリスクにさらされています。子どもというのは、なかなか言うことを聞かないものです。マスクの付け方もいい加減だったり、距離をとらないでおしゃべりをする、大声で騒ぐなどとても手に負えたものではありません。これで感染者が出たらどうなるのか、子どもたちにはそういう危機感などないのです。

 今年の夏は一際暑くいや近年の気候はこれまでわたしが経験してきたものとは違い、予測不能であり、想定外をいくものです。

 竹の会をよく知らない人たちがあれこれと竹の会のことを推測し、言うのは、盲人像を評す、ようなものです。

 それから竹の会に通ったからといって、だれでも受かるわけでもない、のも当然のことです。わたしはひとりひとりの子たちと向き合ってわたしのできることをやってきました。しかし、だからといって親御さんたちがそれで満足するわけではない。いつしか自分の子の能力を忘れて当然合格できると誤信するようになる。わたしの言ったとおりにやれた子など数えるほどしかいないのに、自分の子は先生の言われたとおりにやったと思い込んでいる。都立中学にしても、都立トップ校入試にしても、難関私立高校入試にしても、合格するには、共通して持って生まれた才能に恵まれていなければならない。多くの親はそこだけはスルーする。なぜか自分の子だけは例外とされる。今現時点でどんなに成績が悪くてもそれは何かの間違いとして片付けて疑わない。

 才能とは、ただに知能の高さだけに限られない。集中する統御力、自己の至らなさを反省する謙虚な精神、学ぶということに対する敬いの心、自己の向上を求めて止まない心、何が賢い行動かを弁える精神、そうしたさまざまなものが、才能なのである。

 作文は嫌いだからやらない、漢字は嫌いだからやらない、本は読まない、おしゃべりは好き、人に教えるのが好き、騒ぐのが好き、面白いことがなければ退屈だ、そういう子たちはまだ幼いか、才能には恵まれていない、ということなのです。算数がよくできるというのは、限られた、特殊な才能です。ただわたしはこういう子は高校入試には向いている、というか成功するかもしれないと言っているだけです。

 正直に言えば、才能のある子は限られています。やたらいるわけではない。わたしの知らないところで、つまり塾のない日に、スポーツに明け暮れている子がいてもわたしにはわからない。もしかしたら伸びていない理由の一つはわたしの知らないことが多すぎることではないかと思っている。

 それにしても竹の会に早くから来て算数の訓練を受けてきた子たちの伸びは歴然としている。小5からだと「遅い」ことも歴然としている。もちろん一般論である。小6直前に来て受かった子もたくさんいるから。才能とはそれくらいすごいものだと思う。

 総じて男の子の精神年齢は低く、大人視点のなさが、作文や読解のときに如実に表れる。保育園児並みに騒ぐのも幼さゆえのことである。幼い子が論説文の読解などできるわけもない。算数はできても適性問題になるとできないのは幼いからである。わたしの想定は算数を通して思考を磨くことはもちろんだが、なによりも精神的成長を期待してのことである。適性になると途端に時間が止まる子たちは、過保護、過干渉、甘やかし、と大切にされすぎてきた子たちなのではないかと思う。幼いのである。騒ぐというのは幼いからである。

 東京に竹の会のような塾は二度と出てこないだろう、と思う。わたしは長い苦節時代を通して、どうしたら子どもたちを「考える」主体に育てられるか、と艱難辛苦し、わたしの方法、竹の会という指導形態を完成させてきた。長い指導の経験を通じて、やはり子どもにはもって生まれた才能というものがあり、わたしにできるのはそういった才能のある子を極限まで伸ばしていくことだと知った。今のわたしなら才能のある子に限れば、筑駒、開成ならいつでも獲れると思う。ただし、わたしの専門は高校受験です。

 

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