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小学生のときの基礎訓練が、未来を決める!

2022.08.20

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◎小学生のときの基礎訓練が、未来を決める!
 世の親の、本当の失敗は、受検に失敗したことではない。それは、子に真の学力をつけてあげないままに、受検に失敗して、公立中学に行くことだ。
 小数の計算、分数の計算もあやふやなままに、さらには、割合をやったことがある程度の勉強でやり過ごし、割合という格好の思考材料を生かさないままに、小学期を過ごしたことが、最後の砦となる高校受験の失敗につながることも知らないで、受検という大義で大手塾の教材、授業に翻弄されることである。基礎を蔑ろにし、受検対策ばかりに時間を投じる愚を親は悟ることもない。
たとえ受検に失敗しても、中学で生きる勉強をすることがなによりも大切なことではなかったか。中学は、小学低学年から基礎訓練をしてきた子のみに微笑むことを知らない親こそ哀れである。
 基礎訓練とは何か。
 まず計算を完全にすることである。竹の会では、早い子で小4前半には、難関私立レベルの複雑な四則演算を10分足らずで4問解く。計算をマスターしたら、割合による思考訓練である。竹の会では、予め用意した思考枠組みにしたがって、割合思考の訓練を重ねる。型から入り、いずれ型から抜け出ることを密かに仕組んでいる。やがて私立中堅レベルの算数の問題が解けるようになる頃には、自信もついてくる。ここからさらに思考を深めるための訓練を続ける。竹の会の訓練に終わりはない。子どもたちはこの割合思考を通して、勉強のスタンスを定着させ、確立させていく。いつしか勉強が生活の軸になる。こういう指導を受けてきた子たちが、仮に、受検に失敗しても、区立中学で、トップレベルの成績を獲得していくのは不思議なことではない。受検に失敗したからと言って嘆くことはない。これまで培ってきた基本の訓練は将来必ず役に立つ。至宝の財産となっている。
 竹の会は、もともと高校受験からスタートした塾である。最初の頃は、学区制のため、渋谷区では、最高でも都立戸山を受けることしかできなかった。だから竹の会では、都立青山、駒場、新宿の合格が多いのだ。平成10年代になると、隣接区の学校を受けられる制度ができて、竹の会からも都立西に合格する者も出てきた。平成10年には、早稲田実業高校に初めて合格したのは、竹の会の指導が難関私立にも通用するということを暗示していた。しかし、高校受験にしても、やはり難関高校を受ける者が竹の会にやってくることはなかった。都立上位校をめざす者がせいぜい城北あたりをねらうのが関の山だったか。平成20年に立教新座、桐蔭理数に合格した生徒は慶応にチャレンジして失敗した。彼は4年後に東京大学文Ⅱに合格した。慶応を受けたことはわたしの知らぬことであった。私に難関私立高校の受験指導を依頼する親子はいない。難関なら早稲アカなどの大手と信じて疑わないのが常のことだからしかたない。竹の会にいた中学生もできるようになると中2の終わる頃には大手に行くという例も何件かあった。そういう子たちがどれほどの私立に受かったのかは一切知らない。ただ城北あたりで難関などと言われてもわたしには失笑しかない。

 実は竹の会から都立日比谷を受験した者はまだ出ていない。日比谷はトップ都立の頂点に立つ学校である。しかし、だからといって才能のある生徒なら私には合格させることなどそれほど難しいことではない。本年筑駒、開成高校に合格した生徒は、駿台模試全4回で、都立日比谷志望者千数百人中1番を取っている。彼は小4に竹の会に入会し、早稲田進学会の模試では常に上位に名前を載せ、都立小石川を受検したが、なぜか落ちた。落ち込んで沈黙していた時期を脱して、高校入試で再び竹の会に通うこととなった。わたしのレジュメを再びやり始めたのだ。彼には、いや彼のお母さんにも竹の会の本質が見えていたのだと思う。真に頭のいい人ほど竹の会の「本物」に気づく。中半端な秀才ほど竹の会を見くびる。大手信仰の親ばかりで、親子で大手に邁進するのが東京の親と子である。

 わたしは、いくら竹の会が「いい塾」だと主張しても、誰も信じてくれないことは重々承知している。だからいつも黙して結果を出してきた。受検、受験は才能がなければ受からない。しかし、竹の会には、そういう子ばかりが来るわけではない。わたしは才能に恵まれない子が少しでも中学でついて行けない、ということのないように、最低限必要な基本だけはつけてあげなければ、竹の会に来た意味がないという思いで、辛抱強く、粘り強く、丁寧に指導してきた。そういう子たちが受検してもだめだろうという気持ちは変わらないし、親御さんにもその旨を正直に話してきたつもりである。

 わたしのできることは、才能のある子を最大限伸ばしていってやる、その結果目的の高校に合格させる、それだけである。才能に恵まれない子には正直無力である。どこまで基本的なことを理解させてやれるか、そこまでである。
 

 

 

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