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指導とは・・・

2020.06.23

指導とは・・・
 竹の会では、比較的難しいとされる「新算数速解」になると、「わからない」という子が続出する。そもそもこのレジュメ集に取り組める子はやはり選ばれた子たちであるに違いない。そういう子たちが、「わからない」というとき、どこまで考えさせるか、というのも、一つの問題であるが、この子たちにどういう指導をするか、というのが、また悩ましい問題である。
 時間がないということで、解説レジュメを作るのは、諦めているが、「わからない」というときや、「この問題は一度解いておくべき」というレベルの問題については、わたしの思考の軌跡、解に至るまでのメモ書きを残しておいて、それを読んでもらう、ということをこのところやることが多い。わたしのメモを読んでも「わからない」「理解できない」のなら、わたしの期待するほどの能力がないか、実力には達していない、ということである。懇切丁寧な解説レジュメの弊を避けて、それなりに考えて試行錯誤をしてきた者には、わたしの解に至るメモ書きが、目から鱗がとれるほどに効果のあることは経験から知っている。だから思考の浅い者には、なんのことかわかるまい。元来わたしが危険を感じてきたのは、わかりやすく教えるという行為の思考抹殺の側面であった。
 教えるというのは、主体の積極的な意思活動を殺ぐものである。そこには、他人の頭脳の理解した軌跡を追う頭脳の働かせ方がある。これはおそらく物真似に近いはたらきに違いない。ここで主体的意思を抹殺されれば第一巻の終わりである。
 頭のいい家庭教師(たいてい学生)の弊は、彼らが脳破壊をしていることに思い至らないことである。彼らは、自分たちが優秀であることを自負し、その優秀な頭をもって、わかりやすく教えることができるのは自分の能力ゆえにだと、思い上がっているのが普通である。実際、彼らは懇切丁寧に教える。生徒は「わかりやすい」と感動し、親は「いい先生に巡りあった」ことを喜ぶ。
 しかし、その優秀な学生先生も、さすがに「わかりやすく」教えるということが、子どもの思考を破壊していることには気がつかない。それどころか、子どもが嬉しそうに「わかった」と喜ぶのを見て、学生先生は、自分はいいことをやった、と充実感に浸ることに余念がない。
 一般に、家庭教師を雇った子というのは、ベタな問題しか出さない定期試験ならそれなりに点を取るが、実力が試される、つまり思考力が問われる本番では失敗することになっている。
 さて、この真理は、大手の横並び授業においても、同じ病理として、現出してくるに違いない。
 そもそも横並び授業というのは、能力が揃っていなければできないものなのである。公立学校というのは、だから矛盾に満ちたことをやっているわけである。
 大手が、能力別クラスにしているのもあたりまえといえばあたりまえのことであった。
 しかし、それとしても横並びの弊害は依然として消えない。進学大手塾になると、必然扱う内容も自ずと高い。落ちこぼれが出るのは必然である。授業についていけない、つまり授業を受けても「わからない」子たちが続出するのは必然の流れである。大手はそういうことは計算済みで、一部の天才たちに実績を出してもらえば、勝手に人は集まることを知っているから、商売できるのである。大手にとって商売になる子たちが、さらに補習塾に行ったり、家庭教師をつけるということも知っている。
 このような現象は、学生先生の、あるいは講師の、「教えること」をひたすら「聞く」という学習姿勢がもたらしたといえる。
 ここが指導の難しいところである。教えるというのは、脳に毒である。主体性を確実に減殺する。大手で力をつけていくことができるのは、このような最悪の環境の中でも主体性を崩すことのない、類い稀なる天才だけなのである。
 わたしの経験では、この主体性を毀さないで、すなわち主体的な考えているという姿勢を崩さないで、教えるというのは、非常に繊細な、技術を要するものである。わたしは、本人の主体的な思考の姿勢を毀さないように、工夫した教材の製作を手がけてもきた。
 子どもに「わかる」という実感を持たせるのは難しい。「わかる」とは、子どもの内面に、予め理解の枠組みを構築し、もって子どもが、その枠組みに照らし合わせて「わかった」という構造になる。だから指導者は、まず「わからせる」ための「枠組み」を子どもの脳に構築しなければならない。
 ところが、学生先生は、そんなことはお構いなしに、教える。わからないのを子どものせいにする。子どもというのは、いや大人だって、何かを理解するには、予めなにかの理解の枠組みがなければわかるはずがないのである。学生先生は、わかりやすく教えればわかると思っている。どこかの塾の宣伝に「わからなければわかるまで教える」というのがあったけど、本質はそういうことではないのだ。
 例えば、割合を子どもに理解させる、として、その前にやることがある、ということである。まず、子どもの脳の中に、割合という概念の枠組みを構築する、そういう先決問題がある、ということを言っているのだ。
 子どもを指導するというのは、このことを言っている。何を教えるにしても、まず子どもの脳に受け入れのための枠組みというものがあるのかをまず考える。「わかる」「理解する」というのは、ほかでもない、子どもの中の予め「ある」、理解の体系というものに照らし合わせて「わかる」と認識することなのである。わたしたちが、新出の概念、考え方を理解するとき、わたしたちは、自分がこれまでに理解した体系なり、知識なりに、照らして、考えるわけで、全く何もそういうものがない中で、理解するというのは、大人でもできないことなのだ。
 塾というのは、子どもたちにまず理解のための枠組みを構築してやる、それが仕事のはずである。ところが、そういうことはお構いなしに、科目を「教える」のが、巷の塾ではないか。そこで子どもたちが、いきなりの概念を「分からない」のは当たり前で、学生先生は、そんなことには無知で、「わからない」のは、頭が悪いからと、密かに確信する。その上で、つまりそのことを前提に、そんな頭の悪い子でも、教え方でなんとかする、「わかりやすい」説明で、わかったと言わせる、と喧伝するわけである。ところで何年も塾をやっていれば誰でもわかることだが、子どもというのは、ほんとうは「わからない」けれど「わかったことにする」ということをやるものである。あまりにも熱心な先生が、何度も説明を繰り返すので、つい「わかった」と言ってしまう。つい「悪い」と思ってしまうのだ。単純な学生先生は、「そうか、わかったか、よかった」と喜び、自分の説明はなんと素晴らしいのか、自分が本気で教えれば頭の悪い子でもわかるようになる、と自分の有能さを思い、自分をなんと優れた先生なのかと幸せに思う。アホの骨頂だ。気を遣った子どもこそ哀れなものだ。「わからない」のに「わかった」ことにされ、親は喜ぶ。親も単純なのだ。
 子どもというのは、いろいろな事情で「わかった」ことにせざるを得ない状況に追い込まれる。
 優秀な子だと思われたら、そう見られるために嘘をつく。自分のためというより、先生の期待を裏切りたくない、ということが子どもには大きな負荷になるかもしれない。
 指導というのは、ただ単に教科的に子どもに教えるということではありえない。子どもの脳の状況を事実としてまず知ることは当然であるが、脳の質は指導の過程で明らかになる。そもそも指導が可能なのか、指導して効果はあるのか。そういうところは、実は、入会試験でチェックしているはずなのであるが、どうもこの入会試験で、チェックできなかったケースが、出てきた。
 入会試験が、基準点に達していないというのは、さすがに入会許可するわけにはいかないが、最近困った事例が出てきた。立派に合格点を取って入会したはずなのに、指導ができないケースが、2、3出ている。これはどうしたことか。入会試験は24年2月頃から開始している。これまでに実施のたびに検証されて改良を重ねてきた。今は持ち帰り禁止になっているが、最初の何年間か忘れたが問題と解答を持ち帰るのを認めていた時代がある。だから問題と解答が出回ることはあるのかと思う。よくあったのは弟妹の入会の際に、兄姉の持ち帰った入会試験問題を練習してくるケースだ。まさかと思っていたが、ほぼ99%の確率で問題を知っていた。
 そういうわけで入会試験の持ち帰りはできない。

 

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