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結局、初版以上にいいものは出ない

2021.06.08

 

◎結局、初版以上にいいものは出ない
 養老孟司に「バカの壁」がある。養老さんもそのあと「〇〇の壁」ものを出して、2匹目のドジョウを狙ったようだが、流行作家のようにはいかなかったようである。
 小説と違って、サイエンス、評論ものはシリーズ化というわけにはなかなかいかないようだが、福岡伸一の「生物と無生物の間に」は、ベストセラーとなったが、福岡博士は、その後も意欲的に、その続編を書いている。わたしはファンだからすべて買って読んだが、初版本ほどは売れなかった。
 ヒットすると次から次に内容は変わらないのにタイトルを変えて、少しだけ新しいことを付け加えながら、新しい本を出してくる人が多い。しかし、私の検証では、初版ほどのインパクトはないし、内容も目新しいものはない。いや微かにしかない。
 同じネタを繰り返し出しているだけである。
 そのいい例が、近藤誠という医師の書いた本である。この人の主張は、ガンは放置しておけ、ということである。そこから抗癌剤を強く否定する。この人は、なかなか口当たりのいいことを言うものだから、本も売れた。この人はほとんど同じ内容の本を次から次に出しているが、今ひとつ決定打に欠ける。マイナーな主張のままである。
 内容のない、どうでもいい本を一週間に一冊のペースで出していたのが、勝間和代だ。売れたのかどうかは知らない。精神科医の香山リカが、ひと頃やたら本を出していた。この人たちが出すのは、文庫本とか、新書に限られている。内容はない。時間が経ったら忘れる程度の内容だ。
 私は、職業柄本は片っ端から読むけれど、わたしの琴線に触れる本はあまりない。
 そういう中で心に残る本だけを精読することが、今の私の本とのつきあいかただと思う。
 話題の本は、初版が良くても、次はない。2匹目のドジョウ狙いがほとんどだ。同じ内容、つまり主張を換骨奪胎して、再提示しているだけだ。良心的な学者だとそれにちょっぴり新味を加える。
 読み応えのある本、いわゆる深い本ですね。何度読んでも面白いというのはあります。味わい深いというのはある。小林秀雄の本は、読み応えがある。その洞察の深さに、驚嘆するほかない。いやここまで何層にも人間の心理を読み解き、それをまた見事に言葉で絶妙に言い表すのは、まさに神の技ではなかろうか、と思う次第です。
 初版がいいと言ったけど、初版ではなくても、研究社の英語参考書なんかは、その道の権威の先生が書いた、素晴らしいものがたくさんあるから、一般論である。ただそれにしてもやはり初版には勝たないということはよくあった。
 あと、わたしが、気に入って読む本というのは、同じ著者のものが多い。適菜収とか、国語学者の石原千秋、経済学者の三橋貴明とか、いろいろ気に入ったものを見つけ出して読んでいます。
 それにしても今は小林秀雄全集が欲しくて仕方ありません。というか、とうとう注文してしまいました。高価な古本ですが、新本だと倍の値段だからとても買えない。いつか塾止めたら、その時は書きかけの小説を仕上げたい、というのが夢である。それから小学生のための算数や国語の勉強書を書きたい。中学生のための、独自対策の勉強書を書きたい。今は、忙しくて、本当に書きたいものが書けないままです。どうしても来年の受験、受検を見据えての対策レジュメに重点を置かざるを、得ない。いつか自由に書きたいものを書きたい。子どもたちとの指導からいつか離れる時がくる。その時、わたしは自由になれるのであろうか。
 
 今は、わたしの「指導」を待つ子たちのために、本当に全集中している。今の、私の指導技術が、これまでの最高水準にあるのだろう、と思う。わたしにはわかる。今なら、合格に持っていける、合格を取れる、そういう指導が、取れる。わたしの指導が、私の予想を遥かに越えた結果をもたらしたこと、もたらすことを、わたしは知っている。人は、私の指導を一度受けたらその不思議な力の虜になるのだろう。子どもたちは、嬉々として竹の会に通ってくる。
 これまでにない指導、私が考え出した、私の、竹の会だけの指導、私は、竹の会に通ってくる子どもたちのために、いつまでも力を尽くしたいが、どこまで私の体がこのような、ある意味過酷な仕事に耐えられるのか、体のあちこちにガタがきて落ち込むこともよくあり、不安はいつも漂い、それでも一日一日を子どもたちのために捧げたい、その思いだけではたらいています。
 竹の会を始めて今年の10月で37年目に突入しますが、正直、新型コロナが襲来してきた、去年の2、3月、私が人生初めての大手術で入院した2月、3月、この空白期に、わたしは指導というものを無意識のうちに鳥瞰してきました。わたしはこの時に指導について、鳥瞰した位置から眺めることができた。より高次のステージに立つことができた、と思います。そこから見た子どもたちの心的風景は心の鳥瞰図として私の脳裏に刻み込まれました。その時から私は緩急自在に指導というものをコントロールできることが可能となった。私は、思うように子どもたちの学力を伸ばしていけると思ったのです。もうすぐ竹の会は終わる、そう観念をいつも背負いながら、わたしは、竹の会の、今の、私の指導が、これまでにない、最高水準の域にあることを感じてきました。最後の最後に神様は私にそのような力を授けて下さったのではないか、そんな気がします。
 指導という実践があるから、いいものが書ける、のだと思います。実践がなければ、机上の空論に終わる。わたしがいつまでも現役で指導しているから、書けるものもたくさんある。ただ、現役だから書けないこともある。
 子どもたちが、竹の会で、私と邂逅したのは、まさに、偶然の徒でした。竹の会に入会する前は、とても竹の会に懐疑的な方が多い。一方で惹かれながら、他方で疑っているわけです。入会前に、信じきれない不安からか、よくいろいろな質問をされてくる方もいます。
 案ずるより産むが易し!
 竹の会に入会される前とした後とでは、懐疑から感謝へと感情が変わる親御さんがほとんどなのもわたしはよく知っています。わたしのは昔から「竹の会はいい塾ですよ。実際に指導を受けたらすぐわかります」とわたしはいつも心の中で叫んでいましたね。なのにあなたたちは決して信じようとしてくれない。ようやく入会して初めて、実際に指導を受けて見て、竹の会に出会えたことがなんと幸運であったか、そう言われる親御さんが、ほとんどなんです。
 よく私は言うのですが、世の中の、いや東京の子どもたちは、塾難民なのではないか、と。本来塾というのは、子どもの能力の壁には、無力なものです。進学塾というのは、本来、元々の秀才や天才を相手に進学実績をあげるところなんです。普通にできる子でも進学塾では無理です。世の中には、補習塾というものもあるそうです。学校の授業ですらわからない子たちがたくさんいるのです。こういう子たちに、テキスト使って授業するわけです。中には個人指導とか、個別指導とか、とにかく頭の悪い子向けの商売があるわけです。こういうところで学ぶ子たちが、報われることはほとんどないと思います。
 だから塾難民なんです。竹の会の方法は、考える力を培う、育成するというポリシーから来ています。竹の会でもそういう子たちは無理と最初から切っています。だから入会試験で篩い落としているのです。しかし、仮入会というのを認めたり、なぜか能力がない子が入会試験に合格したりで、そういう子の指導をせざるを得ないこともある。竹の会の方法は、そういう子らにもそれなりに効果を発揮したわけです。そうなるとそういう子たちは竹の会をやめたくはない。そういう子たちをその子たちの持てる能力の限界までは伸ばすことはできる。しかし、それ以上はない。ましてや合格レベルに達することはない。しかし、親というのは子どもがかわいいからなんとかしたいと一生懸命なわけです。
 わたしとしては、とにかくできうることは尽くします。しかし、それ以上は無理です、というのが、本音です。
 自分で言うのもなんですが、今の私の指導技術は、過去最高の水準にあると思います。今の私ならどんなできない子でもそれなりの学力まで持っていける、それはわかっています。しかし、それがわたしの、私の竹の会の、本来の目的ではない。わたしは、合格見込みのある子を指導したい。そしてそういう子らの潜在する能力を思い切り引き出してあげたい。少なくとも今の状況は私の思いとはかけ離れている。どんな子でも竹の会の子なら全力で指導するから、効果がないわけはない。しかし、例えば、走るのが遅い子を訓練はできても、その子が大会で優勝することはない。人間というのは生まれながらにして得手不得手がある。ピアノ、テニス、野球、なんでもいい。人並みにはなるかもしれないけれど、一流にはなれない。勉強だって同じです。無理なものは無理なんです。そもそもふつうにできるようにする、そういうことが目的の塾ではないのです。ところが、ふつうにできるようにすることもできない塾が巷に溢れている。

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