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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

結局日比谷・西が証明した3年型都立こそ/公立中高一貫校という選択/あたりまえのことがわからないバカ増殖社会

2016.10.08

 おはようございます。昨日は真っ青な秋空とひんやりとした空気に満たされて久々に秋を感じることができました。今日は一転どんよりとした雲に覆われてしまいました。10月になっても夏日があったり、台風がやってきたりとなにか確実にわたしたちがこれまで経験してきた気候の流れとはちがう、それだけはわかります。少年の頃の秋はもっと寒かった。どうかするともう鼻をずるずるさせて風邪の菌に侵された。今のようにティッシュペーパーなんてない、長袖の服の袖は鼻水を拭くのでカピカピになっていた。ユニクロのヒートテックがあの頃あったならどんなに暖かかっただろう。小学時代の家の暖房は炬燵と火鉢だけだった。石油ストーブが普及したのはずっと後のこと。火鉢には炭が赤く燃え、陶器製の大きな火鉢は暖かいというより熱かった。炬燵はといえば、炭火を入れた陶器製の炬燵、櫓に布団を被せる、今のホーム炬燵の赤外線ライトの代わりに炭火を入れたもの。夜寝るときは布団の中にも入れて暖めた。なんとも危険極まりなく、火災の危険は限りなく大きかった。火傷というのもよくあった。その後炭に変わって練炭なるものが重宝されはじめる。これはよく不完全燃焼し一酸化炭素を発生させて死ぬ人が出た。着る物はと言えば、肌着は木綿、金持ちはウールの外套などを着た。子どもの頃は寒さからいつもガタガタ震えていたけれどとにかくタフだったように思う。医者に行ったって今のように抗生剤なんてほとんどない。ペニシリンしかなかった。注射針を平気で使い回ししていた時代であった。病院こそ不衛生で信用ならなかった。それでも当時の人々は医師を尊敬した。尊敬と言えば学校の先生も同じで贔屓するバカ教師ばかりだったけど少なくとも今よりは尊敬されていた。今のようにテストの点数を参考程度にしか扱わない、そんなバカなことはなかったので、中学などはテストの成績さえよければ「5」はくれた。生活態度は別にA・B・Cで細かに評定されていたから問題はなかった。今のようにそういうものをふくめて内申を出すなどということはしない。

 内申がそんなものだとしたならば、教師の質でいくらでも恣意的につけられることになる。そんな内申制度ではまずいちばん影響を受けるのは、まじめなのに内気な子たちだろう。テストの成績は常に90点を越えているのに、3しかもらえない、そういう女子がいた。無口で何か言われると説明できない、黙り込んでしまう、そういう子だっている。そういう子にとってテストで高得点をとるということはその子の最大のパフォーマンスのはずである。しかし、内気で自分の感情、思いを説明できない、ただそれだけの理由で内申は3である。かつて平成20年に都立西に合格した女子であった。選科の得点が取れていないのなら3でもしかたない。選科で点がとれないのは、手を抜いているからでしょ。点がよくても内申が悪いとしたらそれは選科特有の才能を評価の基準にしたのかもしれない。その基準というのは当然偏見に満ちた、主観的なそれである。

 さて、このようにして内申というものがテストの成績だけで決められないとしたら、内申が高くてもバカが多分に紛れ込むことになる。特に、女子に多いけれど内申がオール5近いのに受ける都立が目黒、広尾程度というお笑い並のお粗末なことになる。実力が伴わないのである。今の都立高校というのは、独自問題出題型と共通問題型に分かれる。日比谷とか、西、戸山、青山はもちろん前者である。比較的いい都立なのに共通問題なのは駒場とか、小山台がある。共通問題というのは、学校で5とるくらいの子だと、たいていは最低でも90点はとれるレベルの質である。これは入試の結果が内申のいいものから受かっていく、ということを意味している。その結果どうなったか。駒場では国立大合格者が99%出ない。小山台は伝統的に東工大に強いと言われてきたけれど、年々落ちるばかりである。

 中学で内申がいい優等生は信用ならないということはあたりまえのことでしょ。内申でテスト以外の要素を加味する、加味どころか主たる判断要素とする、そういうバカなことをやっているから、その内申のいいヤツが行く高校はさしたる進学実績を出せない、これほどわかりやすい話しはない。日比谷とか西はそういうことがわかっているから独自問題の成績で選別しようとしているのだ。内申で決めてたら真の秀才なんか集められないでしょ。学校で品行方正な優等生を演じている子が内申もらってうまくいけば推薦でトップ都立に合格ということを考えているのだろうけれど、内申とれない、天才というのがいるわけです。選科で2しかとれないのに、数学なら高校並という天才は結局バカ都立へ行けというのが今の内申制度だ。だったら私立難関に行くしかないでしょ。もっとも経済に余裕があればの話しですが。

 独自問題出してる高校というのは、内申なんか信用していないということでしょ。秀才というか、天才をほしがってるわけです。東京のバカ教育委員会は、公立中高一貫校制度なるものをスタートさせたけど、これなんかも自分たちが制度をいじりすぎて、結局頭のいい子はみな有名私立に逃げていき、公立中にはバカが90%を占める、そういう現実を作り上げた結果である。必然都立高もほとんど凋落していった。このバカ教育委員会のアホ委員たちは、公立中高一貫校にして小学から本来私立に逃げる予定の小学生を取りこもうとした。しかし、制度の最初は、これまで中学受験など考えたこともないアホたちが一斉に学費の安い公立へとなびいた。この制度がスタートして10年が経ち、結局真理だけは見えてきた。進学実績なんてものは従来の3年型がダメだから、6年型にするということが本質的なことではなかったということだ。6年型は小学の秀才を公立に取りこむ作戦にほかならなかった。そして一部の6年型にはその効果があった。それは私立難関校の併願校とされるようになった小石川に顕著である。頭角を表してきたのは小石川のほか武蔵がある。併願の多い6年型には桜修館と両国を入れてもいいか。ここまでである。公立中高一貫校制度が10年経って、明らかにしたこと、それは日比谷や西、戸山、国立といった3年型強豪都立校が不動の地位を築きつつあるということだ。真理とは何か。ほかならない秀才が集まる学校の進学がいい、ということにほかならない。あたりまえの話しである。こんなあたりまえの話しはない。小石川には開成蹴って小石川を選ぶという生徒もいる、少数であるがいる。そして日比谷や西になるとそういう人が多い。早慶受かって日比谷というのも多い。つまりこれだけ秀才や天才が集まれば当然そのような結果になる、ただそれだけのことである。問題なのは従来型の3年制都立か、6年制の中高一貫型か、というところにあるのではない。どれだけ天才を集められたか、これだけである。

 そんなことはわかってい。だからわたしは最初からそんなバカな話しにはつきあってなんかいない。中学生なら実力つけて、思考力、判断力をつけて、1000点満点の700点を占める独自問題中心の都立を受験すればいい。そして秀才が集う学校でいい刺激を受けながら勉強に没頭していい国立大学に行くことである。日本では、東大、京大といった旧帝大、つまり国立有名大が最先端であることは間違いない。内申制度なんか糞食らえだ。中学のバカ教師に媚びるための制度をいつまでも温存させるなどというのは東京の教育委員会は全くアホの集まりとしか言いようがない。ほんとうに「できるヤツ」、天才というのは、要領よく立ち回れない、如才なく振る舞えない、不器用で、自己表現もままならない、内気で、想像力に富む、そういう人の中にこそいるのに、今の内申制度ではそういう逸材を内申上のバカに仕立て上げて、結局本当にできるヤツがいい都立に行けないようにして、バカばかりを集める仕組みにしてしまっている。

 ◎普通に考えて見てください。

 わたしは普通に考えてみてください、というしかないのです。世の中のバカたちは、あたりまえのこともあたりまえとわからずに自らの首をしめることになっている。先ほどの内申の話しなどもそうです。主観的な内申のつけかたを許しておいて、つまりバカ教師の資質で決められる、裁量的な点のつけかたを許しておいて、いずれはそういう裁量内申のいいバカが高校に集まればバカ高校に凋落するしかない。新宿の説明会で聞いた話しだが、推薦で入った生徒はたいてい落ちこぼれるのだそうな。張りぼての5で固められた生徒ならそうでしょ。それを制作したのはバカ教師なんですけども。高校なんかもうとっくの昔から内申のいい奴がそのまま天才なんて信じていないわけです。できないヤツは推薦で行くしかない。一般では受からない。そういうバカに本当は高校も来て欲しくないでしょうけどね。

 わたしは大手塾のバカ論理に気づかないバカ親のことをよく書きますけれど、九段であった合同説明会なんかに出かけてチラシ配っても意味がない、ということは身をもって知りましたが、その90%前後は大手塾に通っている子の親だったのですね。だから1000枚以上チラシを配ってもうんともすんとも反応がないわけです。反応があるのはまだ塾に行っていない、たいていは学力のほとんどない子なんですね。それから竹の会では入会試験をやって選別しますから、大手に行っている子というのがこれまでもう何十人も受けに来ている。そしてそのほとんどが落ちている。0点というのが少なからずいた。6問中1問だけとか、2問というのもかなりいた。3問正解で準合格にしていますが、1年も2年も大手に通ってこれですよ。何十人も受けてこれですよ。それでわたしは「わかった」わけです。大手の塾というのがどれだけひどいのかということもそうですが、世の中の親のバカさ加減というものを知ったわけです。こういう人間たちに竹の会のことなんか理解できるはずもないと思いましたね。

 それから先ほど中学の内申というものを言い募りましたけれど、小学の内申というのは、中学ほどねじ曲げられていない、とは思っています。確かに、わたしの経験だけ考えて見ても、贔屓する教師はかなりいた。ただ小学時代の通信簿でわたしは小1から6年で「図画工作」というのがずっと「5」だったわけです。わたしのような模範的優等生タイプとはほど遠い子どもに正当に評価してくれていたわけです。確かに、わたしは小学の頃、みんなから「絵がうまい」と言われてまして、賞なんかもとりました。風景画が得意でした。それを小学校の先生は「5」としてくれたわけです。5はこれだけで後は4とか、3、3がいちばん多かったように思うのですが、2も1つか2つあったような気がします。わたしは竹の会に入会できなかったと思います。今竹の会では「よくできる」が8割前後を入会の時の目安にしていますが、面談の時に「忘れた」とか言って見せてもらえなかったケースも多々ありますが、やはり合格するほどの子の内申というのは、ほとんど「よくできる」ばかりなわけです。だからわたしは「よくできる」がほとんどない子は公立中高一貫校なんか受けないほうがいいと思うのです。もちろん一般論です。「よくできる」がほとんどないのに知能は高いという子も超例外ですがいるにはいますから。ただ内申がよくないなら受検などと考えないほうが無難です。

 27年都立富士合格者の内申はオール「よくできる」でしたよ。これまで竹の会の合格者も似たり寄ったりです。

 それはそれとして、小学時代に思考を鍛える、訓練をするということは絶対に必要です。今、小学時代を竹の会で過ごし、つまり訓練してきた子の親御さんというのが、よく回想されて、竹の会で小学時代を過ごしたことにとても感謝されるわけです。ここまで思考力を鍛えてくださり、思考力をつけていただいた、と感謝されるわけです。平成26年に桜修館を落ちてしまった受検生のお母さまから今年いただいた年賀状には、「今の成績があるのは、竹の会で小学時代に先生に出会ったおかげです」というような趣旨のことが書かれてありました。おそらく学年トップなのでしょう。竹の会で小学時代を過ごした子どもたちのお母さま方というのは、みなさん竹の会で過ごした訓練の日々を懐かしがり、今の成功を回顧しておられます。おそらくみなさん成績優秀なのでしょう。わたしは早くから受検というものを契機にするにしても、とにかく小学4年、5年、そして6年を基礎学力の訓練に費やすことの大切さというものを訴えてきました。小学生というのは、「教える」、「学ばせる」、「勉強させる」という考え方ではダメです。訓練の対象でしかない。わたしはそう考えています。訓練してなんぼです。考える、思考する、ということを訓練するのです。基礎学力を鍛えるのです。小学生の勉強というのはそういうものです。主体的な勉強姿勢などというものは訓練の結果できあがっていくものです。最初から主体的に取り組めなどということを言葉で言っているのではない。まず実践です。まず行動です。小数の計算を鍛えて、次に分数の計算を鍛える、とにかく行動です。そして分数ができるようになったら少しずつ思考を訓練していく。割合です。割合という道具を子どもたちの訓練、思考訓練に使うわけです。子どもたちの心の中に思考様式というものを組み立てていく。思考の型というものを組み込む。最初は型にしたがい「考える」ということを実践する。この訓練には1年、2年と丁寧に地道に時間をかける。そういう中からいつか型から抜け出る、型に囚われない思考を引き出していく、そのときに主体的な態度、思考態度、勉強のスタンスというものが確立されていく、これなんです。杉山太一君はその体験談の中で、竹の会で勉強の方法論を確立したと述べていますが、そして多くの卒業生たちが竹の会で勉強の基本的なものを手に入れたと言いますが、これです。

 大手をまるで鰯の頭のように信じて疑わないバカ親のみなさんが、一斉に大手のテキストを使い、大手の学生講師に「説明してもらい」、つまり「習い」、「教えてもらい」、授業というものをカリキュラムに沿って受ける、そういうことにどういう効果を期待しているのか。バカな話しです。1000人が同じテキストを使って、同じ授業を受けて、同じ時間数だけ通って、その1000人が全員成功するわけがない。まさに大手に入った時と2年後なりに卒業する時の順位は不動のままでしょう。頭のいい順ということです。大手で成功するのは最初から頭のいいヤツだけです。別に2年通っても1000人中900番なら900番のままです。順位が上がるのは自分より上のヤツが怠けたときだけです。同じように努力していたら絶対抜けないでしょ。世のバカ親のみなさんは、900番の子ががんばれば100番になれると素朴に信じている。わけないでしょ。

 自分の子がそれほどの子でないなら大手に行けば確実にバカになります。いや大手というのは比喩でどこでも地元塾でも同じです。竹の会のような発想をもって実践している塾なら、あるかどうか知りませが、別です。以前、竹の会を退塾した人なんでしょうね、ネットで「竹の会のような塾」と検索している人がいることを知りまして苦笑しましたけど、実際見つかったのでしょうかね。少なくとも竹の会を見つけて竹の会に入会された方たちは幸運だったとよく言われます。中には入会する1年前から迷いに迷い、結局大手に行き、ようやく竹の会に辿り着いたとい人もいます。わたしの草枕の話しを疑い続けて入会を躊躇していた人もいます。そして入会してわかるのは、「なんでもっと早くに竹の会にきておかなかったのか」という後悔です。そうです。確かにそうです。竹の会の1か月というのは、それほどにかけがえのない時間なのです。1か月の差でそれはそれは大変な差になります。なんと大きいな時間の壁に見えてくることか。1か月遅れて入会したことがこれほどの大きなことなのか、竹の会ではそう感じられます。小5の子は小4の子を羨み、小6の子は小5や小4の子を羨みます。子どもたちがいちばん知っているのです。竹の会で学ぶ、いや指導を受けるということのその凄さというものを実感しているのです。自分で自分の考える力が伸びている、それを実感しているからです。こんなにいいのなら、もっと早くきていればもっとよくなっていた、そう思うのです。今年小石川に合格した女子がことある毎に言っておりました。「もっと早く来ていれば」と。彼女は先に入っている子たちになんとか追いつこうとしてとにかく最後まで頑張った。結果的にはそれがよかったのでしょうね。早くからいた子たちが逆にのんびりしすぎて失敗したということはあります。

 世の中の人間というのはあたりまえのことがあたりまえにわからないほどにバカなのかなとよく思います。石原都政のとき、石原は週に1回しか都庁に出勤していなかった、3時間ほどいてそそくさと帰ったという。普通に考えたらこの人は何もしてないでしょ。チェックなんか人任せでしょ。どんな重要な案件も責任もってやらないでしょ。都民はこういう都政のやりかたを是としていたわけでしょ。いや、都民というか、国民というのは、みなこういう人ばかりなんですよ。じっと見ているだけで、何もしない、そういう人が増えている。あたりまえに考えたらそんな都政で陸な結果にならないことはあたりまえのことでしょ。マスコミも何を今更という感じです。追及して騒ぎ立てるのは、あの政策決定過程の時でしょ。マスコミは都議会がやってることを、じっと見ていただけでしょ。

 今の政治家が政治資金をお手盛りで使うのはあたりまえのことでしょ。そういういい加減な法律を作っておいて、お手盛りはバレなければいいですよ、と言っている法律なんですよ。金額の書いてない領収書も合法だなどと言っている菅何某はいったい何ものなのか。いやそういうことを言わせる自民党というのはまともな政党なのか。政権能力のないことを露見させてしまった、昔の民主党なんかは国民に心底愛想を尽かされたわけでしょ。もう二度とあんな政党に政権をなんて考える人はいないでしょ。だから自民党はやりたい放題だ。じっと見ているだけ、やりたい放題を見ているだけ、でどうなるか、わかっているでしょ。

 まあ政治の話しはいいです。わたしは世の中のバカ親のみなさんが大手になびくその心性をアホだと言っているのです。あたりまえのことがあたりまえにわからないからバカだと言っているのです。3年ほど前は竹の会に入会試験を受けに来て、合格して、大手に行くという親が何人かいました。わたしは、学校の優等生が大手に行ってもダメだと言ってきました。通知表で「よくできる」が8割程度ある子たちです。竹の会の入会試験はこの程度の子たちなら合格できるように調整しております。ただこれは偏差値試験ではない、潜在的な指導可否の可能性についての試験です。知能テストに近い。この試験に受かった子が大手に行っても成功するわけがないのです。竹の会という指導形式によって初めて伸びていく子たちなのです。大手で伸びるのはもともとの天才だけです。テキストに支配されない、バカ講師の話に惑わされない、自ら切り拓く勉強のできる天才、これだけです。学校の優等生ではダメです。竹の会の入会試験の合格が大手の切符にはならない。そういうバカ親がうようよ棲息しています。

 

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