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試験の定義

2015.11.08

 おはようございます。本日は渋谷Aの指導日です。今日は一日中雨のようです。秋は一雨ごとに寒くなると申しますが、気温が急に下がると油断から体調を崩す人が必ず出てきます。どうかみなさまお気をつけください。

 竹の会というのは、一週間単位で時間が経過するようです。11月もあっという間に終わりそうです。しかし、ここはそう簡単に終わってもらっては困ります。一日一日焦らずにやれることを目一杯やってほしいと思います。

竹の会では、都立中高一貫校の指導はもちろんとして、トップ都立高校の指導も再開しております。都立中入試とトップ都立高校の入試はどうちがうのか。

まず、高校入試は点がとれる試験です。都立でも独自問題出題校になるとさすがに共通問題のようにはゆきませんが、それでも安心して合格するには7割弱は必要でしょう。これに対して、都立中高一貫校の選抜は、試験ではなく適性検査とされていますが、~法的に公立では入学試験はできないことになってますので適性検査ということになっています~都立中入試は点が取れない試験です。合格の最低ライン、つまり補欠合格者が繰り上がるラインというものを見てみますと、半分に満たないところでせめぎ合っている。もちろんかなり高い点数で合格する子たちもいるわけですが、合格最低点はかなり低い。かつて平成22年のことでしたか、小石川に合格した子の母親からメールをもらったことがありますが、その子は開成も合格していたのですが、小石川の作文はなんと18点だったというのです。そして同じ開成に受かった子にも作文16で合格した子がいると教えてくれました。足切り点制度というものがないのでこういうこともありうるわけです。都立高校で独自問題制度が始まったばかりの頃、竹の会で都立青山に合格した男子生徒は数学が24点だと言いました。 

 都立中高一貫校の合格者はたいした点はとれてない。不合格者となるとほとんど点らしい点をとっていないということです。不合格となる子というのは、合格点には遠く及ばない点数である、いやそれどころかほとんどの不合格者は1割~2割そこそこしかとれていないのではないか、とわたしは推測しております。不合格者は基礎がまるでできていない、だれもができる問題をどんどん落としている、というのが実態なのではないか。計算ミスでこける子も相当いるはずです。簡単な割合の問題もとれない。単位あたり量の分析思考ができない。そういうことだと思うのです。

 ところが、こういう子ほど直前は難しい問題ばかりを練習させられている。もともと基礎がないのにも関わらずです。いいですか。適性検査問題のすべてが難しい問題ではないのです。少なくともその半分は基礎的な問題です。そしてこの基礎的な問題をきちんと解いていれば、合格圏内に入ることができるのです。ところが、大手などに通うほとんどの親子が、「小石川は難しい」とか、「桜修館は難しい」とか独り合点して、やたら難しい問題ばかりを練習する。大手の用意する「小石川対策講座」などで体裁だけ真似た似非問題に飛びついていく。この時期に見られる母親とそれに引き摺られた子どもの断末魔の姿にしかわたしには見えない。

 いいですか。だれもができる問題を簡単に落として、難問を解こうとする姿勢はおかしいでしょ。もともとそれほどできない子ならなおさらです。基本で勝負しなさい。試験が迫ったからといってやるべきことをはき違えてはいけません。

 それから竹の会でも見られることなので注意しておかなければなりません。レジュメでほとんど合格はんこをとらないままに前に進めても少しも思考力はつかない、それどころか、粗い頭に仕上がります。粗野な思考しかできない頭になります。わたしは思考力をつけるには、小5の1年間を費やさねばならないと考えております。これを省略した子というのは、将来的にも伸びないことが多い。もちろんその子の持って生まれた知能というものが大きく関わりますから、飽くまでも一般論としてのことです。

 わたしは都立中高一貫校合格をめざすのなら、小5の一年間を思考形成にあてるためにも、小4の2月までに入会してなければならない、そして進学指導重点校、中でも日比谷、西クラスに合格するには、小6の4月には入会して指導を始めるのが理想だと、考えております。 ただ、たとえば、小5の子たちというのは、都立中高一貫校の合格をめざすというのに、多くが習い事、稽古事に時間をとられている、ということがあります。中学だと部活です。ここで誤解している人が多いので、断っておかねばなりません。

 試験制度というのは、試験にどれだけ時間をかけられるか、ということを試しているのです。試験に受かるためには、他のやりたいことを犠牲にするのが当然に求められている、それが試験だからです。日本には四季があります。どうもこの季節の区切りというのが、影響しているように思えてしかたない。夏までに示す、どこの親子、家庭のなんともいえない余裕、倦怠です。試験を受けるということをどこか遠いところ、ずっと先のような錯覚をしているような節があることです。9月、10月と季節が変わり、気温が下がってくると、はたと気づく。わたしは常々に言ってきました。夏までに頑張ることですと。今それが効いてきている。夏あれだけ時間があったのに4時間そこそこの家庭学習ではあまりも少ない。

 試験の定義、試験とは、どれだけ試験のためのみに時間をかけられるか、を試すものである。 時間を何に使うかは個人の自由である。 子の自由である。親の自由である。そして、同じ能力であれば、時間をかけたほうが、できる。あたりまえのことです。他を犠牲にして勉強に時間をかけたほうが受かる、簡単な理屈です。ましてや、自分より能力の高い者に対して、他を犠牲にしないで、勉強を犠牲にする者がとうてい勝てるわけがない、あたりまえのことです。能力の高い者は能力の高い者で、さらに自分より能力の高い者と戦っているから、なおさら勉強に時間をかけようとするであろう。試験を受けるというのはそういうことです。

 

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