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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

西、日比谷への道/九段、両国という選択/思考力をつけるとは

2016.11.12

 おはようございます。ようやく渋谷Bの提出課題について、返却のためのレジュメ準備が終わりまして、後は月曜の朝添削するだけです。念のために申し上げておきますが、冬期はレジュメ課題はお休みとなります。冬期中の家庭学習については、特に、渋谷Bについては、午後から家庭学習のための課題について対応を検討しております。

 ※課題のきまり

  ○名前を書いてください。昨日も名前のない課題が、机の上に放置されたままになっておりました。引き取り手のない課題がよく出ます。時として、本人さえも「わからない」ということもありました。

  ○課題を提出するときは、問題、添付の解説等一式すべてを提出してください。特に、解き直しの場合、過去の状況を把握するためにも必要です。また、次回の課題をパソコンで検索して探すためにも必要です。

  ○答案は、原則原稿用紙に書いてください。これは、字数感覚を身につけるということもありますが、特に、字を丁寧に書く、練習するという意味もあります。極端に小さい字は、本番で、不利です。原稿用紙のマス目をなくした場合に、字が小さすぎて、間隔ばかりが目立つというのはだめでしょ。本番で急にそれまでの習慣を糺すことはできません。普段からが大切です。普段からやっていることを普段通りにやる、これでしょ。

  ○原稿用紙については、竹の会のレジュメがA4であることから、A4で統一するのが、ファイルしやすいと思います。

  ○「字」は、丁寧に渾身の力を込めて書いてください。乱雑な殴り書きは絶対にやらないでください。

 ※冬期のお申し込みは、11月中のみです。なお、冬期の申込がない場合、11月をもって退塾となります。

 ※2017年2月の新規募集は中止となりました。

 ※漢検結果判明日 2016年12月1日(木) 午前10時

  合格証書発送 2016年12月11日(日)

 ※受検の小6は、2017年1月をもって全員竹の会卒業(寿退塾)となります。

 ※現在「渋谷B」の勉強環境が整い、定員も少ないため、指導も効率よく進んでいます。2月からの改編により、渋谷Aに遜色ない、充実したコース体制が整うはずです。

 ※教室にきたら、必ず手洗いをしてください。咳がひどい場合は、お休みしてください。狭い教室ですので、換気は頻繁にしますが、マスクもウィルス等の侵入を防ぐはずです。励行してください。

 

◎いつも思い悩むこと、それがある日突然のアイデアをもたらし、大きな転回となる

 竹の会では、さまざまな思考開発の方法が日々実践されています。特に、算数指導の場面では、平成21年~22年に製作された、ミクロマクロの視点が、平成23年に見直され、一気に、竹の会の割合指導を進化させました。平成25年白鷗合格のお母さんは、「目から鱗」の方法と絶賛されましたが、竹の会で割合指導を受けた子どもたちが、苦もなく割合をマスターしていくのが今では竹の会の普通の光景となってしまいましたが、ひとつのアイデアが子どもたちの人生を一変する、そういうことをわたしは日々実感してきました。

 今年都立戸山高校に合格した生徒は、国語で本番87点をとっています。実はこの生徒は、前年の、つまり中3の9月の模擬では、国語の点がとれなくて悩んでいたのです。ところが、わたしの執筆していた「新国語読解」をやるうちに「国語がわかった」ようです。最初、「新国語読解」の答案は、ボロボロでほぼ0点でした。それが、わたしの解説を読むうちに、国語というものを理解してきたようです。最初彼は、国語の問いに対して、自ら考えて書いていたのです。しかし、国語というのは、そういう科目ではありません。設問者が作った創作問題について本文から答えとなる文を探して書く、科目です。国語は、本文の筆者の書いた意図とは関係なく、設問制作者が考えた筆者の意見について、本文を読み、設問制作者が答えと考える本文の筆者の見解を探して書く、そういうことです。決して、実際の筆者が「どう考えたか」などを推測して、自分の考えを書くのではありません。このことを理解してから、彼の国語の得点は信じられない高得点となりました。11月には、国語偏差値70に達したのです。その勢いは本番でも高得点をもたらすほどのものでありました。

 実は、竹の会には、朝日の天声人語について私が質問をつけたレジュメがありますが、これがなかなかできが悪くて使えない。それでなんとか小学生に国語の考え方を知ってほしいと考えて、執筆を始めたのが、「読解の素」であるわけです。これは現在執筆を始めたばかりですが、「新国語読解」の小学生版というところです。成功するかどうかは今のところ未知数です。

 作文については、まあいろいろ書いていますが、子どもたちの作文を添削していて、これはだめだ、と思っていたわけです。まず、子どもたちが、「問い」というのは、ほとんど無視するのには参りましたが、これはどういう意識なのでしょうか。また、段落を分ける、つまりは、何をどういう順序で書くか、についての構想というものが、ないのです。思いつくままに書いている。しかも、段落を分けても、同じことを繰り返し連呼する、だけなんです。体験を書け、と言うと、具体性というものがまるでない、作文いうものがまるでわかっていないわけです。

 作文の書ける子というのは、何を書くべきか、本質を的確にとらえて外さないものです。問いに答える、ということがわかっている。段落というものがわかっている。同じことを二度書かない。事実は時系列に書く。主張は論理的に書く。「しかし」の使い方をわかっている。原則「したがって」で短く文をつなぎ、「しかし」をはさむ。ひどいのになると、一文が200字以上というのがいるけれどだめです。問いに「文を2つ書け。文とは、「。」で終わる」とわざわざ注意書きがあるのに、「。」1つの文を書く。もう救いようがない。問題をていねいに読み、指示を理解し、指示通りに書く、これさえもできないのである。正直そもそも受検などできない、適性がない、ということではないか。適性というのは、「言われたことが、できるか」という適性を問うているのに、わかっていない。字数なんか平気で無視する。わたしが、原稿用紙を使え、というのは、原稿用紙というものに、常に、真剣に対しろ、ということである。答案を書く、ということに対する厳しい姿勢を問うている。

 わたしは、よく式を書け、単位をつけろ、と言うけれど、なかなかいう通りにしない。これなどは実は適性というものが「ない」ということではないか。単位をつけるのは、式を意味あるものとして、認識しているかどうか、である。式を書かないのは、答が大切と考えているのかもしれないが、そうではない。指導においては、式こそ大切である。どうやってこの答を導き出したのか、それこそが指導の要である。

 今悩んでいるのは、子どもたちの幼児性である。これは読解という高度な読み取り、それを背景にした作文力というものから、ほど遠いところにある。幼児というのは、ものを具体的にしか理解できない。指導というのは、この幼児的理解からいかにして子どもたちを解き放つかにかかわる。わたしが計算をこそ、まずと考えるのは、計算こそ、まさにものとの対応のない、抽象的思考の訓練と考えるからである。ただし、計算は確かに抽象的ではあるけれど、あまりにも形式的である。だからこそ時間をかけさえすればできるようになるわけではある。しかし、計算もかけて2か月であろう。計算の正確性、速さは、神の域であってこそである。億単位の小数の割り算を正確無比に出せる能力こそ適性なのである。ミスばかりする、ミス計算はダメでしょ。

 こうして問題はいかにして子どもたちに抽象世界というものを脳内に取り込むか、ということである。これについては、最近閃いたアイデアがある。実は、すでにレジュメ化し、次の指導日に小5に実験してみようと考えているところである。そうしたら、次から次に副次的アイデアが浮かんできた。わたしの目下の課題である、子どもたちの脳を抽象脳にするというテーマが少しでも形になって進められればと期待している。

 わたしが課す様々な課題群は結局すべて子どもたちに抽象的なものに対する機会を多様に与えていこうという考えから出ていると見ることもできる。

 竹の会の子どもたちは「先延ばし」することもなく、みな熱心に課題を提出してくるようになった。「先延ばし」こそ勉強の大敵であるということはまた機会があれは述べてみたい。

 

 

 

 

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