画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

西高に行きたいという思い/桜修館に入りたいという夢/夢を叶える塾でありたい

2016.10.15

 今日はもう更新はあきらめていました。ブログを書く決心は書き始めたら3時間で終われるか、そんな思いから時に迷う。大量の課題、これから作るレジュメのこと、解かなければならない数学の問題、読まなければならない本のこと、そちらを優先させなければ、いつもそういう狭間にいる。わたしのブログを待ち望んでいるみなさんもいるのだからと叱咤してとにかくパソコンに向かう。

 少年の頃、実家の西日の差し込む三畳間の窓からまだ鶴見岳が見えていた時代があった。今では高い建物で遮られてしまったけれど、あの頃は見えた。三畳間に取りこまれた、ポカポカと暖かさが心地よい綿布団の上に寝転がり夕日に赤く染まった鶴見岳の雄々しい霊峰を見てたらなぜか涙がこみ上げてきていつかいつか自分は大きい人になりたい、子ども心にそう誓った。

 今ならきっと虐待ということになるだろう、憲兵上等兵だった父はいつもわたしに鉄拳を振るった。わたしには3つ上の姉と1つ下の弟がいたけれど暴力を振るわれたのはわたしだけだった。そのことに気がつくまでに長い年月を要した。いつか幼い弟が父に泣きながら叩きかかったことがあった。わたしは弟のことが心配で気が気でなかった。父が怒って殴ることを予想したのだ。ところが父は笑いながら弟をいなしていただけだった。内心ほっとしたけれど、わたしだったら殴られていたと気がつくのにどれだけの年月を要したことか。

 小学生の頃はよく泣いた。父親に激しい暴力をふるわれていつも怯えていた。革のベルトで、裸にされて、背中を鞭のように打たれたこと、蹴り出されて裏口から道を隔てた側溝に転がり落ちたこともあった、自分が何をしたのか、どんな悪いことをしたのか、いくら考えてもわからなかった。いつも泣いて、祖母や母に「父ちゃんに謝りなさい」と言われて、謝った記憶しかない。何か悪いことをしたのだろうか。覚えていない。冬の寒い夜、裸にされて冷水をバケツでかけられた、あのときは弟もいっしょだった、そうだ、あれは通知表が2ばかりだったせいかもしれない。わたしはわんわん泣いていた。

 小学生の頃はいつも泣いていた。熱湯の入った湯飲みからお茶を浴びせられたこと、杯を投げつけられたこと、今でもその時できた三日月の傷が頭に残っている。小学生の頃はいつも泣いていた。

 中学生になって成績がよくなって父があまり怒らなくなった。高校になって反抗するようになった。いつか家を出る、出て行く、そのことばかりを考えてきた。

 進学校に入ったけど父に反抗する、勉強なんか糞食らえと思った。高校2年の時に家出した。岡山の駅に深夜降りて、ひとりポツンと駅前のベンチに座り何時間も過ごしたら、母と祖母の顔が浮かんできて、また夜行で戻った。高校は退学しようと何度も思った。卒業したら大型トラックの免許取って、東京で働こうと思った。そして実際にそうした。5か月ほど東京と横浜の間を6トン車で貨物を運ぶ仕事をした。どんなときも大学への夢は捨てなかった。旧帝大に行きたい、京大に行きたい、いつも思い続けた。郷里へわたしは帰った。父に頭を下げて「勉強させてくれ」と頼んだ。父は駅長として母と赴任していたので、わたしはばあちゃんと弟の三人で実家に暮らした。姉は嫁いでいなかった。わたしは初めて心静かに勉強できた。毎朝7時前には起きてばあちゃんの作った味噌汁で朝ご飯を食べて、すぐ勉強始めた。お昼もばあちゃんが焼きそばとかチャーハンとか作ってくれて、それからまた夕方まで勉強して、近くの温泉につかり、また少し勉強したらすぐ寝た。そういう生活を受験まで続けた。半年ほどだったか。父は模試を受けろと言った。それでしかたなく大分の予備校で全県模試を受けた。11月のことだったか。返ってきた成績は酷すぎた。番外だった。箸にも棒にもかからなかった。それでもわたしは自分の思うように勉強を続けた。3月3日、4日、5日の3日間に渡って九州大学の入試は行われた。わたしは前日に別府から博多に汽車で行った。ばあちゃんと母ちゃんが朝暗いうちから起きて朝ご飯と弁当を作ってくれた。それもって汽車に乗った。博多では国鉄の宿に泊まった。受験生でいっぱいだった。初日に苦手の数学ができた。90%は正解。なんかそれでうれしくなったことを覚えている。帰りにはもう予備校が解答速報やってた。数学はできた。英語は和訳しかない。単語は一万は覚えた。直訳書いてきた。日本史と世界史は山川用語集を完全に暗記した。9割はとれた。国語は難問ばかりで半分とれたか。みんなとれなかったと聞いた。生物は結局準備らしいことはやらなかった。3月15日発表。西日本全域にテレビ中継された。もし落ちたら横浜で働こう、そう決めていた。発表見るのが恐くて映画館に逃げた。家に電話したら母が出た。「たけちゃん、おめでとう」、母が泣いていた。頭が真っ白になって大分駅から別府行きの汽車に飛び乗った。

 ずっと見てきた夢、わたしの夢だった。ようやくたどりついた。随分回り道したけれど夢をあきらめなくてよかった。

 父はいつもわたしの行いが悪いと詰ってきた。父の言う行いとは何なのだろうか。受験するなら毎朝先祖の墓に行ってお参りしろと言った。拒否したら「おまえは行いが悪い」と言った。こんな家、出たい、ずっと思い続けてきた。わたしがぐれることもなく悪に染まることもなく、一途に勉強への夢を捨てずにこれたのは、いつもわたしのことを心配してくれた母、そして祖母がいたからだと思う。

 わたしは東京で塾を始めた。ばあちゃん、かあちゃん、ありがとうといつも祈っています。子どもたち、勉強する子どもたちが好きです。わたしになにができるのか、わからないけれど、一途に勉強する子どもたちの夢を叶えてあげたい。いつもそう思っています。勉強する子が一生懸命に勉強する姿が好きです。そんな姿をやさしく見つめていたい。

 夢を叶える塾でありたい、それがわたしの少年の頃の心にいちばん安らぎを与えてくれる、夢を叶える塾でありたい、わちしは子どもたちにわたしの少年の頃を重ね合わせているのかもしれない。だから子どもたちに優しく語りかける、それは実はわたしの少年の頃に語りかけているのかもしれない、きっとそうなのだろう。

ページトップへ