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見えない世界が見えてくる

2021.05.25

竹の会通信2021.05.25

◎竹の会夏期集中指導についてのご注意

 申込は自由です。不参加の場合は、塾はお休みとなります(約40日)。

 参加しない場合、参加できない場合、竹の会はお休みとなります。竹の会から特に勉強の指示を出すことはありません。

◎見えない世界が見えてくる
  意味の世界の見方
  可視化する工夫
  見えないものを可視化する工夫

  私たちは、何かを判断するに際して、目に見えている情報だけで判断しようとしていないだろうか。目に見える事実、これが、何を意味するのか、ろくに考えもしないで反応的に判断してはいないだろうか。
 目に見えている事実は、事実のすべてではない。氷山の一角に過ぎない。

 よく書物を読むとき、「行間を読む」ということが言われます。わかったようでわからない言葉です。かつて中央大学真法会会長の向江氏は、司法試験受験生に対して、体系書を読むことに関して、「行間を読め」ということを盛んに言っておられました。書いてないことを読み取る、なにかわけのわからん話しでした。向江会長はやたら法学博士ということを自慢するのが常でしたけど、わたしのような他大学の人間からすれば奇異に見えたものです。会社法の有名な体系書鈴木竹雄著「会社法」は体系書にしては薄く、よくこの本こそ行間を読まなければだめだなどと言われたものです。鈴木先生の文章は簡潔で無駄がなく名文と言われたものです。

 わたしはさまざまな文章に接してきましので、この行間を読むということに関してもいろいろな示唆に富む文章に出会ってきたと思います。

 つまるところ、今は推測、想像力のことかなと考えております。と言いますのは、一冊の本を書くとき、筆者というのは、書きたいことだけを書いてきたとわたしたちは思いがちです。しかし、筆者が実は敢えて書かなかったこと、何かを書くとして、その際に、書かない、敢えて捨てたことがあるのだということです。

 行間を読むとは、この敢えて書かなかったこと、書けなかったことを推測で看取することなのではないか。

 実は、世の中には、知られている事実より、知らされない、しかも重要な事実がある。今は新聞も「書かなくなった」。私たちが知りたい「事実」を敢えて隠すようになった。福島の原発事故のとき、例の半径90kmの外にいた朝日などの記者は身の危険を冒して原発まで取材に行ったフリーランスの記者から記事を買って、記事にした。もともと今の新聞は記者クラブに配布される政府などの発表をそのまま記事にしているだけで、そういうことには慣れていた。取材しない記者が溢れていた。

 政府は事実を隠す。そして新聞もそれを暴くことはしない。見事に「カネが支配」している。
 

 さて、特に、事実が言葉で語られるとき、事実はその断片が語られる危険性が常にある。
 また事実に付与される意味も一義的ではありえない。だから誤解の危険性が常に孕む。
 算数を解くときは、まず言葉から事実を読み取る、つまり「読み」に費やされる。読みは、問題の表層の理解ではだめで、目に見えない事実の読み取りが大切である。難しい、糸口が見えない、ということもよくある。このとき、糸口が見えないのは、当たり前で、それが出題者の狙いであったのだから、解けないのを想像して出題者はニンマリとしていたことであろう。
 出題者の意図、狙いはここにあったのか、それがわかったときは、ほとんど解決したときなんですけどね。
 問題を読んで見ても、スッと頭に入ってこない、何を言っているのか、わからない、そういうことがあります。そんなとき、何度も何度も問題の意味がわかるまで読んでほしい。問題を読みながら、意味を考えるのです。とにかく意味をとらえなければ解きようがないのですから。
 どうしてもわからない、それなら少しほっときましょう。しばらくして、時間を置いて、また問題を読みましょう。私にも突然あることなのですが、意味をとると、「あっ、」と分かることがある。
 今の私は、解けないという気がしない。それはどんなに難しいと思われた問題も最後は必ず解いてきたという実績があるからなのだとは思うが、とにかく悪戦苦闘しても解いてきた。
 初めて問題に立ち向かうとき、わたしは、知らない敵と剣を構えて対峙したときのような無念無想の境地にある。相手の繰り出す、新しい技、未知の剣をわたしは無心に読む。
 相手の力量を読むことは、見切りの前提となる。相手を見切ることである。
 私は問題を見切ることに全力を集中する。
 相手の動きに無意味なことはない。私はそのすべてに意味を求めるであろう。
 
 剣の極意に、剣尖を読むということがある。相手の剣尖の届く限界を見切る。すると体を常に剣尖の外に置くことで、斬られることはない。剣尖の届くギリギリのところに身を置くのは、攻撃、反撃の余地を残すためである。
 新型コロナについては、政府の対応は、見切れないままに、相手の剣界の内にあるのに、go toなんかをやる。緊急事態宣言というのが、ザル宣言というのはどうしたことであろうか。この国は利権で雁字搦めの構造になっており、そこには合理性の欠片もない。開業医の利権ファーストだから、ベッドの融通もなければ、注射利権も譲らない。日本医師会長の悲痛な表情はいったいなんだったのか? なかなかの役者だった。制度というものが、組織として形を作れば、その組織は月日が経てば必ず状況化する。形骸化する。医療制度が、さまざまな組織化を辿って、開業医の利権を追求する組織として医師会が形成され、医師会は、医療という本来の制度を離れた、利権剥き出しの状況を作り出した。
 いつの世も被害を被るの、庶民である。政治は政府にカネで支える組織を有利に取り扱うのは、前政権、現政権を例に出すまでもない。国民には自明のことではあった。
  

 なぜ見えないのか。
 事実を知らないからである。情報が隠されているからである。
 知らないから、騙される。背広を着た、きちんとネクタイを締めた人間に騙される。詐欺師は服装がいい。まず見た目から騙してくる。いい格好をしている人はいい人だ、人を騙したりなんかしない、そんなたわいもないことで人間は人を信用する。
 新型コロナが発症しても、救急車が来てくれず、来ても受け入れ先の病院がない、という、それで死ぬという、こういうことが、一年前から予想できないはずはなかった。なのに何もやってこなかった。何かをするということはなかった。政権のやったことと言えば、予算を取り崩して、利権に配慮しながら、配ること、ばら撒くことだけだった。
 例えばである。プレハブでもいい。専門の病棟を作る、コロナ臨戦のために、開業医を借り出す、酸素吸入器などの器材を集中的に増産する、看護学生、医学生の活用など、やれることはいくらでもあったはずだ。チャーチルは、戦時内閣と言われたが、今は、新型コロナとの戦争でなくてなんなのだ。今こそ強力な戦時内閣が必要なときなのではないか。少なくとももう病院に入れず死んでゆく人を見過ごしにはできない。あなたたちの肉親が無念にこの世を去っていく、あなたたちは傍観していていいのか、かけがえのない命が今も失われていく、こんな無責任な人たちに私たちの命を預けてしまっていいのか。

 さて、話しをもう一度元に戻します。

 私たちは、書かれていることよりも、書かれていないこと、敢えて書かれなかったことに、意を払わなければなりません。筆者が正面から書いていることだけに囚われてはなりません。書かれてあることから、筆者の選択肢を推測しなければならないのです。新聞で報じられていることよりも新聞が報じなかったことを推測しなければならないのです。たくさんある選択肢の中から、報じられたことは選択決定された。その判断に際して重要な何かが隠された。

 わたしの愛読書の一つ「みくに出版の過去問集」は、実は「見えない事実」を可視化する訓練にとても役立つのです。

 2020灘中学

 ある工場では、毎日休みなく製品を作っています。1日あたりに作る製品の個数は、月曜日から金曜日までが同じで、土曜日は金曜日より少なく、日曜日は土曜日と同じです。ある年、この工場で6月に作った製品は372個、9月に作った製品は366個でした。この年の6月1日は(   )曜日で、7月に作った製品は(  )個でした。

 よく「問題の解き方がわからない」という親子がいますが、解き方などないのです。わたしたちは書かれている事実だけで物事を見てはいけないのはあたりまえのことです。書かれていない様々の事実を推測していかなければならないのです。算数の場合、意図的に事実を隠します。

 例えば、6月と9月は30日あります。土日というのは、月に何回あるのか、最大で何回か、最小で何回か、など語られていない事実がある。算数というのは、わざと語られない事実から問題解決の手がかりを探す、都合これを思考するというのだ。

 上の灘の問題は今執筆中の「合否判定 算数編」で扱っているものである。わたしは、子どもたちの思考段階がある程度の段階に達したら、「見えない事実」を推測して解く、という最高の境地に達してもらいたいと願っています。そのために、明日のために、今こつこつと執筆を続けているわけです。

 いつかわたしの最高傑作に出会える逸材に出会うことを楽しみにしております。

 

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