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読解に難あり

2015.11.20

 「読む」とは何か。「敵の出方を読む」の「読む」である。「深読みのし過ぎ」という言葉もある。囲碁、将棋では、「手を読む」などという。「読み筋」という言葉もある。

 「読む」というのが、単に文章を「読む」以上に、奥深い行為であることがわかってくる。「行間を読む」などという言葉もある。行間には文字はないから書かれていないことを読むということになる。

   おはようございます。11月20日になりました。いよいよ11月下旬に突入です。光陰矢の如し。時は一気呵成に進むばかりです。毎年2月9日(今年は九段がありますから6日か)に掲示板の前に立ってきた、だからこそ心に誓ってきた。いくらでも勉強する時間があると思われている時期に心ゆくまで勉強してきたか、わたしはいつもそれを問いかけてきた。ほんとうに勉強できるのは夏までと思っていた。その意味が、11月のこの時期にほんとうにわかる人もいるだろう。わたしの真摯な言葉がなかなか届かなかった、鈍感な人たちもしだいに事態の深刻さを知るのがこれからの時期です。時既に遅し。時機を逸する。そういう言葉がこの時機の多くの、ある意味勉強というものには素人の、つまりは凡人を形容すべき、常套句です。

 「合格する」のには理由がある。 勉強することに値打ちを認めたかどうかである。勉強を最優先の生活をしてきたかどうかである。過去の合格者を紐解いても程度の差はあれ勉強というものに最高の値打ちを認めた人、それだからこそ勉強にかけた、勉強を最優先させてきた人、そういう人にこそ「合格」という二字は与えられる、いや与えられてきた。

 これから小学生のみなさんは人生でおそらく初めての入学者選抜試験というものを経験することになる。ここでは失敗する者のほうがはるかに多い。8倍、10倍の世界である。これから、中学、高校へと進めば、高校受験、大学受験とさらに人生を決めるほどの試練が待ち構えている。 都立日比谷、西、戸山へ進むことは限られた人にのみ認められた特権である。 早慶に進む、旧帝大に進む、一橋、東工大などのカレッジに進む、これも選ばれた人にしか認められない。試験というものは実に平等な制度ではないか。門閥、身分にかかわらず平等に選抜する制度である。ひとたび試験というものに挑戦すると決めたのなら、それこそ夢中で勉強しなければ成功するはずはないのである。ところが、どう勘違いしたのか、小学生の親には、そういうところの認識ができていない親が多い。勉強を最優先させるというところに覚悟がない。落ちて当然なのである。中学になると部活命の親子が公然と大義を主張する。もちろんそれもありである。ただし日比谷、西への道とはちがう道を進む人たちである。もちろんそれも自由である。わたしのような貧乏な環境に育った者には試験という平等な機会を得て勝ち抜くしか生きる道がなかった。それだけのことである。試験は貧乏な人間には勉強さえすれば道が開けるかもしれない、唯一のチャンスである。

 ある女子が上位都立に合格したときのこと、うれしかったのでしょう、家族も喜びに溢れていた、そういう中で、「吹奏楽部に入りました」と報告を受けた。「えっ」であった。 大学受験は高校受験の比ではないでしょ、そう思った。高校というのは、大学への橋でしかない。高校を楽しんだらもはや橋ではなくなる。橋と思うか、その覚悟がそれからの将来を決める。

 試験というのものが、こつこつと努力してきた者に報われる制度であってほしい。中学はまだ保護されている。勉強する環境を周りがつくってくれる。まわりが気を配ってくれる。高校になると、弱い心の人から落ちこぼれていく。大学になるとこの自決の法則は決定的となる。もはや親も口出しできない、そもそも支配圏にない。それがそれからの人生となる。

 わたしの言葉はつねに2月9日の早朝の掲示板の前から発せられる悲痛な心の叫びであったと思う。このわたしの叫びが届いた親子こそ幸いである。

 「読解に難あり」という評定は実は致命的なのかもしれない。適性検査というのは、文章による意味取りをまず問われる。何を問われているのか、わからない、そういう事態こそが適性試験の真骨頂である。問題の意味を誤解し、早とちりし、曲解して、自ら落ちていく、そういう試験である。私立中の難問とはちがう。私立の難問は問題の求めているものは明確である。ただ解き方がわからないだけである。ところが、適性問題はそもそも何を求めているのか、問いそのものがわからないのである。

 即答できる問題ばかりを練習してきた、大手の子どもがボロボロ落ちるのはあたりまえである。大手というのは小4、小5の頃は、手軽に解ける問題ばかりやらせて、「できる」と親子を錯覚させることに長けている。土曜テストや日曜テストを毎週やって熱心さをアピールし、お手軽問題でいい点をとらせて、親子を安心させる。いつかアホな母親が「うちの子は栄光の授業についていっている」と言っていたけれど、小6の受検間際で慌てるのは目に見えている。さすがに本番間際にお手軽問題でお茶を濁すことはできまいから。例題見て、類題を解く、こんなことやってたらバカ製造だ。簡単な問題は、脳にはなにも刺激にはならない。

 今年桜修館失敗した女子が、「問題の意味がつかめなかった」という意味か、「難しかった」といったけど、家に帰って解いてみたらすぐ解けたとも言った。竹の会で散々練習したはずなのに、「今年は新傾向だった」とも言った。新傾向だったというのは、落ちた子たちが言う常套句である。新傾向ならできないのか、と突っ込みたくなる。ここから透けて見えるのは、「解き直し」をしていない、ということである。

 「7回解き直し」を実行もしないままに、受検に突入したのなら、落ちるのもしかたあるまい。

 それにしても、「読解に難あり」とは克服困難な難事であることか。

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