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読解力の限界が壁をつくる

2015.12.28

 おはようございます。外気温5℃。昨日よりはかなり下がりました。昨日の感覚でいると風邪をひきそうです。さて、今日は、冬期指導第3回目、前半中日です。初日は消耗しましたが、2日目はや慣れました。みなさんも同じかと思います。

 小6の昨日のメニューは、「勝導」(45分)、「冬期特別」2通(30分)、「作文」(45分)、「新読解演習」(20分)でした。これを終了したあと、小石川組のうち3名が「算数をクリアーにする」に挑戦、他は各自の解き直しに取り組みました。

 本日は、「新読解演習」を取り止めます。なぜかって、まるでできないからです。まともに対応できているのは、2名のみと認識しています。

 ここでみなさんに言っておかねばならないことがあります。

 25年に、小石川、白鷗に合格した女子2人は、この「新読解演習」で、毎回ほぼ満点をとっていたということです。わたしはこの子たちが正解を知っているのではないか、と疑ったくらいです。なにしろ正解の通り一字一句齟齬がないほどに答えが正確だったからです。

 そして、27年、つまり本年、桜修館に高得点合格した女子は、この「新読解演習」について、ほぼ9割の正解率でした。

 さて、あなたたちはどうでしょうか。中には、ほぼ全問不正解という子もいました。

 課題には、読解を鍛えるためのレジュメとして、「新国語読解」、「天声人語」、「読解百選」などがありましたが、これらをほとんど無視してきた子たちがいたことは知っています。そういう子たちが、「新読解演習」で、ほぼ0点なのはしかたありません。身から出た錆です。

 問題は、中には、きちんと出していた、あるいは、すべてではないが出していたという子たちの中に、まるで対応できていない子たちがいたことです。幸いなことに、わたしがとにかくも戦っているとおもった2名は、課題を出していたことです。

 なぜ取れないのか。もちろん読解していないからですが、それでは、なぜ読解できないのか。

 語彙が貧困と言ってしまえばそれまでですが、とにかくも文意が読みとれていないわけです。中には、算数のできる、得意な子もいれば、苦手な子もいます。やはり算数ではたらかせる思考とは別もののようです。

 ふとなかなか算数、割合の理解が進められない小5のこと、いや小6にも算数が苦手な子たちが複数いますが、そういう子たちのことを思い浮かべました。この子たちに足りないのは、算数的抽象語の操作なのですが、中には、国語的な抽象世界に入れないという子がいる、そうわたしは認識しております。算数の問題を読んでも、その少なくとも国語的な意味は読みとれるはずです。しかし、それさえもできない小5がいます。これはどうしたことか。いや実は、小6にもそういう子たちがいます。それなりに割合の訓練を積んできたはずの子たちなのにです。これを能力的なものと考えるのもあながちはずれではない。しかし、わたしは、足りないなにか、について、考える、いや思いあたる、ことがあるのです。

 算数的な抽象世界も、国語的な抽象世界も、それぞれに、いや特に、前者では、その世界特有の抽象語が公用語として使われている、だから、この公用語に精通していなければ、その世界では満足に意思の疎通ができない、そう思うのです。

 先日、パティー・デューク演ずる、白黒映画「奇跡の人」を放映していました。たまたまなにとはなしに見ていたら、途中で切れなくなってしまいました。もう、数回見たはずのものなのに。

 目が見えない、耳が聞こえない、したがって、話せない、三重苦のヘレンケラーが、少女時代に、「物にはそれぞれ名前がある」ということを理解するのに苦しみ、もがき、ある瞬間にそのからくりを理解するという奇跡の場面を描いた映画です。何が奇跡か、三重苦の人が後に学問を重ねて、本まで書くようになる、そういうことも奇跡ですけど、わたしは、先のように理解しました。

 ふと思ったのです。具体的に、物と名前が対応している場合は、いいけれど、もし、平和とか、民主主義とか、抽象的概念はどう理解していったのだろう、と考えたのです。物につけられたのではない、茫漠とした概念を一つの言葉でくくるということを人間はやるわけです。いや、数学なんか見ていると、ベクトルとか、一次変換とか、行列式とか、とにかく抽象語、記号言語というのですが、こういう公用語で構成されているわけです。算数で最初に躓く、割合なんかも、もう抽象世界そのものです。

 おそらく、算数の理解の進まない子というのは、この抽象世界で使われる言語が使えないのではないか。それは、実は、具体的な物とそれに対応する名前という、原始的な、具体的世界、その意味で、幼児性の世界から固執して脱却できていないからではないか、ふとそう思ったのです。

 これが、算数ができる、かなりできる子でも、国語の読解がなかなかできないという子ならどうなるか。算数世界はかなり知能に左右される世界です。ですから、算数世界の抽象語にすんなり入れた子たちはかなりに知能の高い子たちであることは疑いありません。問題は、なぜ国語ができないか、です。語彙が足りない。その通りです。ただし、もう少し分析が必要です。

 やはり、ここでも、具体的な物イコール名前、という世界から抜けられない、ということがあるのではないか。 意味がとれない、その原因は、抽象語を理解しない構造にあるのではないか。

 そこでです。あなたたちは、具体的な物との対応という固定された観念世界から自らを解き放ち、今からでも、たとえば、「新読解演習」に出てきた抽象語、物に還元できない抽象的表現をノートに抜き出して、その概念、表現の意味するところを、抽象的世界の公用語、公用表現を整理してみてほしいのです。そして、具体的物との対応のない名前、言葉というものをひとつひとつマスターしていってほしいのです。みなさんが、抽象的世界を駆け巡ることのできる日を楽しみにしています。

 天声人語を読んでもほとんど行間の意味を悟らない、幼稚な世界にいるままのみなさんに、わたしは早く、そこから脱出しなさい、と叫びたいです。

 

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