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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

謎 なぜ落ちたのか

2021.05.14

◎謎 なぜ落ちたのか
 もちろん本番当日できなかったからに決まっている。そうではなく、なぜ本番にできなかったのか、が謎なのだ。
 謎たる所以は、過去問による実践形式の検査を30年分以上やっていたこと、その検査で、例えば理社なら悪くても85点は取っていたこと、にある。なぜ本番だけできなかったのか。本人からの聞き取りが不可能だったので、真相は闇の中である。
 
 例えば、共通問題出題校について、共通問題の理社ができなかったとしたらもはや合格はない。そして共通問題出題校を受けたが理社が特に悪かったという人は一般的ではなかった。
 
 気になるのは、模試の各科目の点数が受験者平均点よりも低い科目があったことであるが、これは過去の合格者の場合にはないものであった。
 これだけははっきりとしていた。高校入試の場合、模試に信頼がおける。
 以上は高校入試生だが、都立中高一貫校の場合は、謎というほどではないのは、とにかく「落ちる」という判断に狂いはないからだ。

 私が確信を持てない場合というのがある。確信とは、受かる確信である。落ちる確信というのは外れたことはない。「受かる確信」というのもほとんど外れることはない。
 この確信を揺るがせるのは、「言い知れぬ不安」とでも言うべきものである。
 これについては、また後で詳しく述べる。
 模試が、悪いのは、決定的な悪い兆候である。
 算数ができれば模試はいいと言うのがこれまでの定説である。
 算数は、指導中に解けた、というのが一番信頼性が高い。指導中にはほとんど出せないで家に持ち帰り解いてくるというパターンが多い子は受からないことがわかってきた。
 確信は持てないが、受かったという例もある。
 25年白鷗、30年富士2名の合格は、落ちると断定できない子たちであった。よく私は「受かってもおかしくない」などと表現したが、正直わからないのだ。ただいつもの合格の確信はない。
 
 算数が解けない子は受からない。
 こういう子に合格の確信は持てない。その子がいくら真面目で勉強熱心であっても確信を持つまでには至らない。
 この子は合格するという確信に至る子はいる。
 しかし、都立中では模試の成績は良くても、日常の何でもない伝達が機能しないとか、レジュメの出来に波があるとか、一言で言えば、不安定さが散らつく子には、言い知れぬ不安が漂い、そして、その不安は必ず悪い方で的中してきた。
 落ちてもおかしくないが、受かってもおかしくはない。そういう子がいる。言い知れぬ不安の要素が強くないのだ。無と言っていいかもしれない。
 無は受かる。
 不安があれば落ちる。不安は必ず現実となる。
 さて、こうして落ちる子には、多かれ少なかれ「不安」がある、ということで整理出来る、と思う。
 高校入試でも、都立中受検でも、落ちた子には、不安があった。そしてその不安は必ず現実となった。
 結局、不安の存在があれば不安は現実化する。この不安が無のことがある。それほどできていたわけではない。模試の成績もそこそこだ、それでも不安があまりない。忘れるくらいな存在とも言える。時として受かるのがこのタイプの子である。
 そこで不安という要素、視点から分析をしてみたい。
 まず模試が極端に悪いのは、不安を通り越して、最初から合格はない。模試が極端に悪くて受かった例を終ぞ知らない。
 ただし高校受験では、V模擬E判定で都立青山に受かった生徒がいた。独自問題の場合、特に、初期の頃は、極端に難しい問題が出ると、平均点が下がることがよくあった。模試で予測できないことがある。そう言えば、27年戸山合格者の最後の模試もEランクだった。当日お腹が痛くてトイレに行ってアウトだったらしい。これは参考にならない。
不安を解消させるには、目の前で、厳正にテストするしかない。
レジュメができなければ不安となる。子どもたちは、少しでもできたら、自分はできた、と過剰評価する。
だから、自分はできる、と自己評価は高くなる。しかし、彼ら彼女らの自己評価の高いのに比して私の評価はかなり低めである。
 私は究極のところまで、「できるできない」を見極めている。
 最後に、合格が取れると踏むのは、やはり不安が消えたときである。不安が特にないことがある。一般的に試験につきものの不安ではない。
 何か知らないが、この胸騒ぎは何なのか、本番直前の胸のもやもや、これは必ず失敗という形で現実になった。

 この胸のモヤモヤは、わたしが確証を持たないことに帰因していると思う。
 確信するというのは、合格よりも不合格の方が強い。不合格の不安というのはないわけである。不安というのは、プラスイメージに対するものだから。疑いもなく落ちると確信することはむしろ普通の事態である。如何に親や、子の合格への思い、期待が強くても不合格の確信は揺らぐことはない。
 この子は合格するという確信を私は得たい。だからそのために全力をかける。特に、この子だけば受からせたい、受からせなければならない、と思ったときの私は神がかりに似た、悲痛な思いに駆られる。
 この子には才能がある、そう見たときの合格への思いは比較的肩の力が抜けている。合格へと導ける、という見通しがあるのは楽である。
 私が心打たれるとき、私は竹の会の神様に心より合格させてほしいと祈る。素直さ、性格の良さ、奥ゆかしいほどの謙虚さ、礼儀正しさ、言葉遣いの丁寧さ、学ぶ姿勢のできている姿、こういうに出会うとき、わたしは、この子は受からせなければならない、と覚悟する。そういうときの私は、その子を受からせるために、万難を排する。朝目覚めると、指導を見つめ直す、不備がないかと考える、突然の閃きをレジュメにするのは、こういう心理にあるときだ。寝ても覚めても受からせるための道を探る。
 私の情念がメラメラと燃えたとき、失敗はない。
 私はひたすら竹の会の神様に祈る。
 私はいつも合格の神と対してきた。いつも私は真剣であった。合格の神は嘘を見逃さない。本当に自分で解いたのか、これだけは、絶対に譲らないであろう。
 一週間のうち、3日と4日も勉強しない日があるのに、それが習い事、稽古事、運動なんでもいい、それで合格の神様にこちらを向いてください、とお願いしても、それは無理というものです。

後記
 進捗が甚だよろしくないというとき、ここで受検を止めるという判断はないのでしょうか。やれるところまでやってみようという判断なのか、と思うことにしている。
あるいは初期導入段階で手がかかる、つまりは時間がかかる、つまり「遅い」という場合、竹の会の本音としては、これは無理かなと思う。一般に「遅い」子は無理で、「速い」子は指導できる、という理解です。
 今年の夏も、季節指導は自由参加としたが、不参加の場合は、学校行事以外の事由なら、つまり何も予定がないのに不参加というのなら、退塾したほうがいい。さらに、学校行事が理由の不参加でも、学校が始まってからの学力低下が明らかなら、当然退塾事案となろう。
 指導の進捗、つまりは修得進度がかなり「遅い」というのは、よくない兆候で、本来の指導が機能していない証しになると思います。本来退塾事案なのだろうと思います。

 今夏は参加者についても季節指導が終わって「遅い」ことが明らかなら、これも退塾事案になろうかと思います。

 竹の会としては、今後の見通しを踏まえて、季節指導前に、退塾を打診することになろうか、と思います。
 

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