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身の丈がどれだけ成長したか

2015.12.10

 おはようございます。師走も10日です。月と木の朝はたいてい適性過去問(銀本)をめくって次のレジュメの草案を推敲しています。いちおうのかたちになるまで木だと一日かけます。レジュメにした案は金曜日の渋谷Bが始まる2時間~3時間前に教室で実際に解いてみて解説なども考えておきます。土曜の朝には清書して完成です。手のかかる仕事だと思います。

 もう初冬なのでしょうか。今朝の気温は8℃でした。1月、2月になると2℃、3℃という日が普通になってくるのですね。鼻風邪から始まって咳が止まらずもう2週間近く苦しんできましたがそれもようやく昨日あたりから沈静化してきました。龍角散の微細な粉を直截喉にふりかけるのがいいように思います。今度の風邪は熱も36度9分止まりでただ気分の悪い状態が長く続いたように思います。わたしの場合は十中八九子どもたちからのものです。咳はたとえこどもでも油断できませんが、元気だと思って油断していると翌日発熱というのが子どもですから、つまり潜伏期間に感染するということですが、用心にこしたことはありません。

 指導というのは究極的には「身の丈」の成長を見届ける営みなのかな、と思います。今年の小6は、小5の頃からなかなか机について勉強に集中するということがなく、指導室にたむろしてきましたから、この身の丈の成長がよろしくないと思っています。身の丈とはつまるところ思考力ということではないかと思います。自ら身の丈を大きくしていくという意識に乏しい一群がいたということです。そういう子たちは今この時期に自分の身の丈の裸の寸法といったものを見ているのではないかと思います。

 指導というのは、常に、身の丈調査というかたちをとる。今わたしが作っているレジュメは、「適性問題Ⅲの研究」と「適性検査 資料から考える」の2点ですが、毎回の指導で新作が供されてされています。

 合格をとる子、準合格をとる子ももちろんいます。全員合格なしということもあります。全部書いても0点、なかには白紙で0点もいます。これが身の丈です。本番ではこういうことなのだと思います。

 能力の多寡を測る。毎回レジュメが測る寸法が身の丈ということです。本番はただそのときその時点の能力の多寡が測られただけのことです。上げ底、見かけの力、すべて見抜かれてしまいます。奇跡なんか起きない。普段できない者が突然できるということはない。また、普段できると思われていたものが、できないのは、身の丈がないのに主観的にあるとみなされていたということにでしょ。

 己の身の丈を知ること、つまり「無知の知」です。自分にできることしかできない、これが真実でしょ。そう悟れば本番で上がる根拠もない。

 かつて鈍才はもちろん、秀才にも、答えを盗み見るという子がいたけれど、こういう行為は身の丈の成長には何のプラスももたらさない、そのことにさえ思い到らない幼さが、わたしにはショックであったけれど、無知を悟らせるというわたしの指導にやる気をなくしてしまう秀才もいたけれど、身の丈こそが大切なんだよ、というわたしの思いが母子には伝わらなかったようだ。

 こうして普段の勉強には何が大切なのかということが見えてきますね。考える訓練です。それが身の丈の大きさを決めるのです。竹の会でも今の小6の中にはなかなか伸びきらないという子たちもいますけど、それは来し方の自分の姿勢を振り返ることです。ひたすら机について思考を磨くことに専念してきたか、です。そういうことに耐えられない子には身の丈の成長は望めないことです。

 当面逃げる姿勢、当面回避する姿勢が思考の習性になり、考える人になりきれなかった人がいるわけです。身の丈を大きくするというのは時間をかけて休むこともなく思考するということですから、意思と実行力がなければできない。

 さて、これからの指導はわたしには身の丈を測る、それだけです。これまでに培ってきた思考というものを発揮させること、そして思考こそ最良の武器なのだということを悟ること、だから今この時期も思考を磨くこと、鍛錬することを心がけるということに気がつく人がいたならばそれは幸いです。

 本番には身の丈の力しか出せない、それを知っていれば何をなすべきか、自ずと悟るはずです。

 

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