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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

身も心もスリムになって新生 竹の会 の新たなる挑戦

2018.03.14

 おはようございます。春の訪れをどんなにか待っていたことか、しかし、それは花粉という毒粉をまき散らす季節でもあったのだということを思い知らされております。特に、昨日はひどかったように思います。これまでにない、想定もしていなかった受験の結果に打ちひしがれ、思うのは、これまで以上に、受験に対して甘い認識しか持たない親や子に厳しくわたしの信念を貫くほかないということでした。兆候ならたくさんありました。それでもどうなるかわからない、いやわたしなら合格へ持ち込めるかも、という思いもありました。部活の試合や練習で指導は順調に進んでいるとはとても思えなかった。それでも勉強にスタンスは向いていたのが救いであった。後手後手の手しか打てなかったけれど、それでも合格へと持ち込んできたのがこれまでのわたしであった。小学生が甘いのはしかたないとしても、それを助長するような親の行動、生活姿勢にはどうしようもない失望感が常にあったと思います。それでもそういう条件の中で最大限に子どもの能力を引き出すべくあれこれと手を打っていったけれど、「やらない」子にはどんな起死回生の手も功を奏すことはない。受検にはひとつの真理がある。甘い親の子が成功することはない、いやなかった。甘い親の子は基本的に甘い、自分を律する力に手加減と言い訳を必ず用意して行動している。頭がいい分、ある意味悪賢いのである。

 このところ時間が空けば、また初心に返り、過去問の道を歩んでおります。ゆっくりと丁寧に過去問の道を歩んでおります。ふと出会った、いや見つけた、なんともよく練られた良問にほとほと感心し、竹の会の子たちなら解けるだろうけれど、もしこういう問題が解けないなら、受検はあきらめたほうがいい、と思ってしまうのです。子も親も勉強熱心で竹の会に期待して通わせていたとしても、これができないのであれば、正直早めに「無理です」ということを告知したほうがいいのではないか。本番までズルズルいくというのはやはり良心が痛む、本人の合格への思いを見ているとなかなか口に出せない。塾の先生というのは、そういう鬩ぎ合いにいつも苛まれている。合格可能性が50%というとき、あきらめさせることは、少なくともプロにはない。かけに出るのが常ではある。しかし、40%、30%というときは、もう最初から落ちることは確実であり、それでも頑張ろうとする子の心情を思いやっても、プロの目から見れば結果は見えているのだから、悩みは深い。模試でいい成績をとったとしても、わたしから見れば、勉強の中身がない、運と才能で模試がたまたまよかったというような子の合格もやはり中身がないことは同じであり、結果はいつも不合格であったのは、当然といえば当然であった。

 塾というのは、いや塾の先生というのは、身も心もスリムでなければならないのだと思う。少しでも勉強に陰りが見えたときは迷わず退塾していただき、常に新陳代謝を促すような管理が理想なのだと思う。竹の会渋谷教室というのは、少なくとも学校の優等生を指導するというコンセプトで立ち上げたものであるが、さほどに優秀でない子が、「仮合格」その他の超法規的事情で紛れ込むことはあります。そしてそういう子たちが竹の会で確かに緩やかではあるけれども一歩一歩と前へ進んでいく、塵も積もれば山となるで、いつしかそれなりにできるようになっている、そういうことは竹の会ではよくあることでありますが、だからといって、竹の会がそのような子たちのための塾として「ある」ことはできないのです。どうしてもスリム化していかなくてはならない。そう決意しております。

 それから、このスリム化ということでは、この一年、新規に中学生を「とらない」と決めております。今年は、竹の会にはあるかないか、新小6の粒がそろっております。少なくとも5人以上は合格する、いやわたしの今の指導技術をもってすればもっともっと受からせることができる、そう見ております。高校入試もすっきりしました。ほんとうに贅肉の、脂の部分がすっかりとれたという感じです。中学生というのは、部活に翻弄されて勉強しなくなる、そういう子はもともと竹の会にはいてはならなかった、そう思っています。部活にしても生徒会にしても学校行事にしても、勉強しない、できない理由に使うようでは、モチベーション、向上心を言っても意味もなく、いずれにしても「せい」にするようになったら中学生は終わりです。

 適性検査で求められる能力とは、自ら問題の糸口を見つけ、処理する能力である。落ちた子にこれがなかった、ということである。普段の指導でもこの能力というものがいつも試されている。そういう能力がないと判断するほかない、という子もよくいる。このまま勉強を続けても無駄なのではないかという子もいる。しかし、子の勉強する意思をわたしのそういう判断で軽軽に摘み取るのも如何なものか、という思いもある。

 国語のできない子へのアドバイス

 まず語彙を増やしなさい。そのために漢検をやるのもいい。1冊の良書を使って、自前の辞書を作る勉強をしてみるといい。あれこれたくさん読むよりも、じっくりと1冊をまず究めることである。その中に出てくる、知らない語彙をすべて綿密に調べ上げて、1冊のノートに書き込みなさい。字はていねいな楷書を、できるだけ細かな字で整然と書くことです。1冊のノートを創ったらそのノートを読むことです。そして7回読んだら、その本をもう一度読みなさい。意味がわかる、そういう体験が大切です。

 国語というのは、抽象的な概念を具体的に言い換えていく、具体的に事実は、抽象的に昇華させていく、そういう成り立ちでできています。この原理を知っていれば、国語の問題を解くときに、自分の考えを書くなどというバカなことをすることはないはずです。国語の問いは、原作文の筆者とは別の問題創作者が独自に、本文の抽象と具体の言い換えの過程を問題化したものです。ですから、問題作成者の意図に答えて、本文から言い換えの部分を探して答えるのが正しい正解のしかたなのです。わたしの「新国語読解」とか、「読解の素」シリーズはそういう見方を訓練するためのものです。国語の作法はそういうものですから、あなたたちは普段はひたすら語彙を増やすことに専念すればいいのです。それもわたしの言った方法がベストです。特に、そのためのテキストなどいらないのです。良書を1冊だけ用意してください。

 

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