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郷里への想い/不合理な選択/どんなときでも勉強する心

2016.04.17

 おはようございます。この2日、なにやら落ち着かぬ心情なのは、今までに未体験の、収まることのない地震が、郷里を襲いつつあるからと心得ておりますが、テレビで見る惨状はなんとも心痛むものがあります。わたしの姉は大分市の市街地に住み、父は別府市の住宅地、市の中心部に一人で暮らし、その隣に二年ほど前に弟が幸運にも土地を手に入れ家を建てたばかりです。実家の隣の土地は、もう何十年も前に、一度手に入れる機会があったのですが、そのときは、母が反対し、結局そのまま人の手に渡り、永く悔いを遺してきました。母の念願であった隣地が何の幸運か、売りに出されたことをたまたまネットで見つけて、今度ばかりは迷わず手に入れられたことはなんともうれしいことでした。

 わたしは別府で生まれ別府で育ちました。別府は、休火山の鶴見岳(標高は確か1300m以上か)の麓に広がる、急な傾斜地である平地が海まで広がる温泉地です。市内の至る所に温泉が湧き、銭湯があります。銭湯は月極で何百円、何度入ってもいい、というものでしたが、最近では、市営でも1回50~100円ほどとるようです。それでも山の高いところにある市営温泉は、今でも無料のはずです。とにかく坂なので自転車で上るときはかなり辛い、しかし、逆に、海側に下るときはあっという間です。

 弟によると、別府には万年山(はねやま)断層帯というのが、あるらしいのですが、今度の地震がこの断層帯にどう影響するのか、ここ一週間はようすを見るしかない、そういうことらしいです。

 母が他界して9年になりますか、父とそりが合わずにもう7年近く郷里には帰っておりません。わたしの暮らした別府、海と山に囲まれた美しい街、母と弟とよく行った明礬の白湯、ワラビの咲き乱れる春の志高湖、少年の頃、よく出かけた六枚屏風、そこでよく野いちごを摘んだ思い出、父と弟と3人で行った山芋掘り、小学生の頃、晩秋の季節、崖に突きだした椋の木によじ上り、むしり食べた椋の実、道ばたの草を折って、食べた、あの酸っぱい味、思い出すことは、いくらもある。

 母の眠る別府の裾野、いつかひとりで訪れたい、いつも思う、「母さん、ただいま」とわたしはきっと言うだろう。いつもうれしそうに迎えてくれた母の笑顔はもうない。わたしは、ひとり佇みただ語りかける、・・

 人間は弱いものです。この災厄が早く収まって、また平和な日常が訪れること、それをただひたすら願うだけです。

◎どんなときでも勉強する心

 本日は、指導日です。気温はもう19℃もあります。今日は暑くなりそうですね。竹の会の子どもたちは、元気にきてくれるでしょうか。体調を崩すことなく、みなさんがそろうことを願っております。

 九州では、地震で落ち着かぬ生活を強いられていますが、わたしたちのできることは、自分たちの生活を全うすることです。小学生のみなさんも、中学生のみなさんも、勉強することです。竹の会に集まった中学生のみなさんは、都立日比谷、都立西、都立戸山、そして都立新宿、都立駒場を志して、竹の会の門を叩いた人たちばかりです。初志を貫徹すること、これを簡単に放棄せぬこと、簡単に中途挫折せぬこと、そればかりを危惧しております。実行しないということ、そのことがすべての躓き、挫折の原因になることは自明の経験的事実です。どうかみなさんが、実行するということがどれほど大切なことなのかということを真摯に自分の問題として対決してほしいと願っております。

 ◎不合理な選択

 わたしたちは、逃れられない思考の癖というものを持ち合わせております。わたしたち人間は、自分の考えが正しいことを証明するように行動する癖があるのだそうです。「正しさ」を証明しようとするのが、人間の愚かな癖なのだそうです。

 やらなければならないのは、自分の考えが間違っている可能性を確かめることなのに、なぜか、正しいことを証明しようとする。

 しかし、考えてもみてください。ある仮説の正しさを完全に証明することなど不可能ではないですか。その仮説に当てはまらない事例がたった一つでも見つかれば、その仮説は簡単に崩せるのです。しかし、人間というのは、そういうふうには動かない。

 経済学者は、自分の経済学説を証明しようとするけれど、現実は常にそぐわない。安倍はアベノミクスを証明しようとはしていないけどいいことはすべて自分の政策のおかげだと言い立てる。が、アベノミクスというのはいくらでもあはまらない事例があるのに意図的に取り上げる価値もない、あるいは無視してきただけである。3.11のとき、津波は来ない、という仮説を証明しようとした人は死に、反する事例を重視した人は助かった。

 わたしたちは、どうしても不合理な選択、判断をする思考の癖というものがある。いくらでも事後説明することができる天才なのだから、証明することに事欠かない。合理的な反証さえも、価値なしとして葬り去られるほどに強い、思考癖である。

 わたしたちは、たった一つの反証となる事例を実は重く見なければならない。正当化とようとするのはわたしたちの生命さえも抹殺しかねない選択である可能性だってある。わたしたちは、自分のもつ、些細な反証を黙殺する、心の一瞬のためらいを決して蔑ろにしてはならない。

 わたしたちは、思い込みの強い生物であるということはよくよく考えておかなければならない。最初に信じた、思い込みを、その過程でいくらでも反証となる事実があるのに、黙殺して、最初の判断を引き摺るという人間の破滅的な選択について、わたしたちはもういい加減に理性的に対決しなければならない時が来ているのではないか。

 

 

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