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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立の雄日比谷・西へ/桜修館、九段路線/小学生の頃の記憶

2016.10.09

 おはようございます。今日は午前中は雨、午後から晴れの予報です。秋が深まるこれからの季節、つまり受検・受験が近づく時節、竹の会では、小5や小6までものお問い合わせがよく舞い込むようになります。小6だとこの時期になって今通っている塾で合格しそうにないという親の判断が迷走の原因なのか、と思います。しかし、いくらお問い合わせがありましても、今は「渋谷A」クラスは席がありません。もともと少ない数しかとれないほどの小さな塾なのでしかたないのですが、小6はありえないとしても、小5も無理です。実は、なぜかこの時期になって小5の親ばかりが竹の会に関心をもたれるようなのです。

 竹の会では入会試験を実施してこれに合格した者を入会させること、さらに通知表の「よくできる」が8割前後ある者を入室の条件としています。、特に、「渋谷A」クラスでは、この2要件を重視しております。入会試験に合格した場合、当日をふくめて3日以内のお申し込みがなければ以後の入会申込はできませんので、この点もあらためてご注意申して上げておきます。

 さらにいったん入室を許されてもその後の勉強姿勢に疑問がある場合、さらに指導そのものが「前に進められない」という事態に直面した場合には、当然に退塾していただくこともご承知おきください。また竹の会では塾で大声を出す、ふざけるなどの行為については即退塾していただくほどに静寂を重視しておりますこともご承知おきください。

 入室を許可された場合でも勉強、指導に閉塞的状況をきたした場合は、迷わず退塾するというのがいい解決と考えております。常に風穴を開け、新陳代謝を促すというのも、また塾の梗塞化を防ぐためには必要なことと考えております。反面から言えば、勉強を常に第一と考える、熱心な親子のみが竹の会には理想の存在ということになります。

 以上の点から竹の会からの「退塾打診」のメールが届きましてもそれは勉強のスタンスの不在の指摘とご理解なされて、竹の会とはそういう塾だということを前提に快く承諾していただければと願っております。

 ◎11月6日 漢検実施です。しっかりと準備してください。

 

●小学低学年だった頃の記憶

 わたしの小学生の頃というのは、まず勉強とは無縁の生活であった、そう思います。よく祖母に畑の手伝いをさせられた、なぜか、そういう記憶が残っています。小学校に上がる前に別府の市街地に引っ越してきたと思います。それまでは祖母の実家の近くに間借りしていたのだと思います。父は鉄道員でしたが、29才で別府の市街地の土地を買い家を建てたことをいつも自慢しておりました。祖母の実家は新居から2里ほどある山里でした。階段状に田んぼが広がり、別府にはいたるところに温泉が噴き出て、たいていは市が公衆浴場として開放しておりましたが、市街地外にあるこうした温泉は無料でした。別府の人はたいてい近くに数か所ある温泉に毎日通っていましたが、わざわざ内湯を湧かす家もありましてわたしには理解不能でした。もともと別府市は休火山の鶴見岳の丘陵地です。鶴見岳はその裾野を別府湾まで広げていたのです。別府市は急な勾配がなだらかに海まで続くため自転車に乗るのは大変でした。海岸までは坂道であっという間ですが、上りは急坂をこぎ続けるのでとにかくきつかったのです。

 祖母は別府でもかなり山間部を切り拓いた堀田村の出身で、実家は代々続く百姓でした。中山香村の豪農に嫁いで、その後祖父の放蕩により祖父が勘当されてどこかへ消え、わたしたち一家は裕福だった本家を追い出され、別府の祖母の実家のあった村に転がり込んだのです。わたしたち一家が市街地に家を構えてからも祖母は実家の近くに村人から畑を借りて野菜を育てていました。わたしはこの畑になぜかついていったことがありました。祖母は野菜作りの名人だったのだと後々知りました。当時は祖母が作る大きなナス、キュウリ、カボチャ、ほうれん草なんでも種を蒔けば当然ああいう風になるものだと思っていました。そうそう祖母は種なんかも収穫のときには必ず紙に包んで保管していたのです。後年弟が近くに畑を借りて野菜を作るようになりましたが、失敗を繰り返していたのですが、弟の嫁の実家は百姓で今はひとり農業している嫁さんのお母さん、つまり義母に教わり、今では大きな収穫をあげるようになりました。その義母というのがまたまた野菜作りの名人なのだそうで、いろいろな隠し技を教えてもらっているそうです。

 祖母は毎日畑に出て作物の手入れをしていました。祖母の漬けた梅干しはわたしたち家族のお気に入りでしたし、なんと言ってもたくあんは上手かった。ただ阿部の本家に長じて行ったとき振る舞われたたんくあんはこれまで食べたこともないような美味しいものでした。こんなたくあんを漬けられるなんてすごいと感心したことがありました。これは祖母の負けだと思ったものです。しかし祖母の白菜漬けはこんなに美味いものはなく、ご飯がいくらでも食べられました。よく祖母と母が白菜を天日に干し、しっかり干し上げることが美味しい白菜のこつだというようなことを言っていたのを覚えています。季節季節に祖母と母は仲良くラッキョウ漬けたり、梅酒を仕込んだり、ニンニクの醤油漬けを仕込んだりとわたしたち家族の食料を一生懸命に作ってくれいたのです。祖母が育てた苦瓜を母がよくこねりという料理にして晩ご飯のおかずにしました。これは温かいご飯によく合ってとても美味しかった。祖母は大根でも唐辛子でもなんでも作れた。そして祖母にはもっとすごい特技があったのです。別府というのは温泉地ですから芸妓もいました。そういう人たちがいつの頃からか、たぶん呉服屋の主人に頼まれて着物を仕立てた、それが縁で芸妓が直接依頼に来るようになった、それで人が人を呼び、いろいろな芸妓が頼みに来るようになった。それで祖母は着物の仕立てで大忙しになった。祖母の仕立ては丁寧でまた仕立代が安いということで評判だった。祖母はよく言った。何十万もする反物を裁断するときの恐さを。もし間違って裁断したら「弁証せにゃならん」と言っていた。祖母が着物の仕立てに忙しくなったのはわたしが高校の頃だった。小学生の頃の祖母は畑から作物を収穫する姿ばかりだ。

 わたしは父親に殴られて育ってけれど、いつも間に入って父親を止めたのは祖母だった。母が止めても父は止めなかった。苦労して父とその妹を育ててきたことをよく知っている父は祖母の言葉には絶対に逆らわなかった。それだけは一度も目にしたことがなかった。父は旧制別府中学に入学したものの放蕩者の祖父に教科書をみな焼かれてしかたなく学校を止めた。それから寺に父と妹は預けられたのだと聞いた。苦労して祖母はひとりで二人の子どもを育てあげたのだ。父は16才で今のJR、昔は国鉄と言いましたが、そこに就職し、小卒の負い目に苦しみながら最後は大分管区では五指に入る大きな駅の駅長にまでなり、なんと勲章までもらって、自慢の種は尽きません。わたしはそういう父とは反りが合わずにとうとう家を出てしまい、母の死後は郷里の別府にも行くことはなくなりました。

 わたしには耐えられない理不尽な父親でしたが、その父親は決して祖母には口答えしなかったのはりっぱでした。祖母が死んだときどんなにか悲しかったことか。溢れる涙が止まらずに泣き続けました。わたしが九州大学に合格したことをどんなにか喜んでくれたことか。近くのお気に入りの温泉に行くといつもわたしの自慢をしていたということです。ばあちゃん、あなたはすごい人でした。ほんとうにすごい人でした。母と祖母が仲良く二人いて夕飯の支度をしていたあの時代が懐かしく思い出されます。

 貧乏だったけどわたしはどんなにか幸せだったことか。

 

 

 

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