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都立中高一貫校の作文/戦略的作文を書け/受検・受験とは戦闘である

2016.11.03

 おはようございます。今日は秋晴れになりました。ここ数日仕事に追われて体を酷使したのがいけなかったのか、とうとう右膝に激痛が走り今日は外に出ないでレジュメ準備に専念しようかと思っています。このところ添削レジュメの数もかなりの数になり添削は早朝から丹念にしていますが、正直かなりの負担です。提出されたレジュメには添削の上、わたしの参考答案を添付し、次回の課題レジュメを添付して、返却することになります。子どもたちの字を見ていると、きちんと丁寧に書かれた字もあれば、どれが答なのか、どの式がなんの式なのか、これも単位をつけていないと、もうわけがわからなくなる、とにかくわたしには書き殴りにしか見えないのです。作文にしてもところどころ字が判読できない、そういう答案があるわけです。

 伝達の道具である「字」が読めないというのはどうしたものか。少なくとも字の「形」の体はなしていないと読みようがない。字のおのおののバランスもある。大きく書いたり、小さく書いたり、これでは読みにくくてしかたない。男子に多いけれどたまに女子にもいる。別に上手い字なんて求めていない、最低限「読める」字を書いてほしいものだ。

 さていよいよ11月になって、受検の小学生には最後の受検勉強のできる月といえましょうか。よく言いますのは、冬期指導後の残された20日ほどの期間というのはもはや何かを「得る」ための勉強はできない、ということです。これは現実に1月という月を経験してみればわかることです。そしてそれは12月という月のありようをも規定してしまうほどに、ある意味恐ろしい重圧です。この時期のプレッシャーというのはかなり特殊です。冷静な思考というものを確実に削ぎます。実力をともなわないゆえの焦りというのが「受かりたい」「受からなければ」という思いに増幅される、葛藤する、そういうときの心理というのはものごとを冷静にとらえて判断するという基本の態度を無にしてしまう。おそろしい季節です。

 竹の会に小6からきたという子もそれまで何もしてこなかったわけではなく、それぞれ思う大手に1年なり通って勉強してきたわけです。しかし、それが何の実も結ぶことがなかったというのが悔やまれるわけです。わたしは竹の会に来る時期というのは、少なくとも小4の2月までがぎりぎりかと思っています。しかし、小4の2月でも正直遅い、という思いはあります。小石川、いや桜修館にしても合格するほどの思考力をつける、というためには、やはり小4の8月前後がベストでしょ。しかも入会試験ⅠでA合格する子でなければ小石川、桜修館を受けるには、そもそもの才において不足と思う。

 小4の8月でA合格する子なら竹の会の指導の流れにのる、順調な指導の見通しがもてる、そう思います。今は、小4は進度はバラバラですが、そのうちA合格者が伸びてくる、そう見ています。現在の渋谷Aには、いわゆる「準合格」した子たちもそれなりにいます。これまで準合格から合格者は出たことはなかったのですが、今年の白鷗と富士の合格者は準合格からの初めての合格でした。

 竹の会で面白いのは、今小5がやっている算数レジュメにもう早い小4が追いつこうとしていることです。小3もわたしの計算手順に従えばたいていは1か月ほどで私立難関中レベルの計算を解くようになる。こういう現実を日々体験するから、小5などは「小4のときに来たかった」と嘆くのですが、世の親たちが動き始めるのは、小5からが相場のようです。わたしの理想とする開始時期と微妙にずれがあるのがわかります。ただその動き出す親たちもめざすのは大手なのですが。

 よくある親御さんの行動というか、心理というのは、小5のうちにいろいろやっておこう、小6になったら受検で忙しくなるから、というものですが、受検時期を安心して迎えられる小学生というのは、小5から違います。小石川などはやはり小4の8月あたりから指導を始めて小5にはもう勉強モードに入っている、というのが理想です。もちろんこれは一般論です。平成23年に小石川に合格した男子は、小4の8月から通い始めました。品川から一人で行きも帰りも通って来たのです。小4の8月に例の計算ドリル(今はレジュメが完成)を始めたのでした。あの当時の竹の会の指導は、「過去問合格法」が主流でした。つまり今のようなレジュメはなかった。彼はみくにの過去問を3年分解きました。銀本3冊です。当時もレジュメはありましたが、飽くまでも過去問合格法の補充でした。あの当時わたしは様々なレジュメを作っては試し、試しては作っていましたから、とにかく膨大な量のレジュメはありました。彼は小6から受けた早稲田進学会模試では、必ず成績優秀者の上位にいました。最後の模試では480人中の5番でした。かれは逸材であり、だれでも小4から始めればうまくいくということではありません。ここのところはよく理解してほしいところです。平成25年の小石川合格者は小5の3月入会です。遅かったですね。彼女の場合は、吸収がいいというか、後々わかったことですが、読解力が神でした。問題を迅速に処理することもできた。やはり逸材だったのですね。平成28年、つまり今年の合格者も女子です。小5の9月入会です。やはり問題の本質をとらえることにおいて優れていた。この子たちが何かの理由で塾を休むということは入会してからほとんどなかったですね。よくあるのは、法事とか、実家に帰省とか、まあ抜けられない家族行事ですね。そういうものがなんでなかったのか、不思議なんですが、合格する子の家庭というのは、そういうものが聞こえてこない、これも共通してましたね。逆に不合格になる子の家庭というのはなぜかそういうものがよくある。これも偶然の一致ということでしょうか。

 ひとたび受検すると決めたのなら、これはもう生活というものを受検モードに切り替えなければならない。小5からずっと習い事や稽古事に週の4回も5回も時間を割いている家庭というのがありますけど、これはもう受検なんかするべきではないですね。小6になっても一つか二つならと続けている家庭もあるようですけど、受検というものがいかに早く本丸近くに達するかなのだということがやはりわかっていない。落ちても嘆く必要はないですね。

 受検というのは、戦闘です。受検するというのは、そういうことです。戦場にいて敵と戦う以外のことをする、これは考えられないことですよね。そんなことしてたらたちまちやられてしまうでしょ。受験という戦いは、どれだけ敵の本丸に近くまで進めるか、ということです。本丸近くまでいく、というのは、近いほど力がある、ついた、ということです。勉強以外のことに時間を費やせばそれだけ本丸に近づくまでに時間がかかる、下手をすれば近くどころか、遠く本丸を眺めるところで時間切れということもある。

 受験というのは、合格水準の力をつけること、それ以上の力は必要でなく、そのためにする勉強は無駄であること、またそれ以下の勉強ではもちろんだめであること、それだけのことである。ここで大切なのは、戦場を駆け抜ける、一心不乱に駆け抜ける、そういうことではないか、と思うのです。

 ◎竹の会の「入会試験Ⅰ」について

  小4を対象とした試験です。学校の通知表で「よくできる」が80%前後あれば合格できるようです。この試験で小4の早い時期にA合格をとることができれば逸材といえます。試験は、全6問、全問正解をS合格、5問正解でA合格、4問正解なら合格、3問正解は準合格としています。現在の「渋谷A」には、準合格の子たちもいますが、今後は、「合格」以上をとらなければ入室はできません。

  小5、小6でこの「入会試験Ⅰ」を用いることもありますが、正直「不合格」の子がかなり出ています。小4対象の試験で合格点がとれないのですから、やはり前途は厳しい、と言わざるを得ません。

  竹の会には、このほか、小3を対象として「入会試験Ⅹ」、本来小5から小6でそれなりの訓練をしてきた子を対象にした「新入会試験Ⅰ」がありますが、「新入会試験Ⅰ」については、未だまともに正解できた子は出ていません。

  小5,小6で「入会試験Ⅰ」に受かっても、その後成功裏に指導が進むかは保証の限りではありません。飽くまでも小4対象の試験だからです。

  ◎指導が停滞するという事態について。

  これは残念ながら竹の会の指導は無理ということです。竹の会ではこういう場合は速やかに退塾をされることを申し出くださることをお願いしております。

  また、よく「うちの子は家庭学習をほとんどしない」という親御さんのメールなどがありますが、これは塾の先生になんとかしてもらう問題ではなくとにかく竹の会に通うということはまず止めるのは当然と思っています。竹の会というのは、勉強する意思のある人たちの集まるところだからです。

  竹の会の入会試験は持って生まれた知能というものを実はスキャニングしているものと認識しております。小3期、小4期の過ごし方、教育などがよくなかったということでもない、とわたしは思っております。竹の会の入会試験の定番問題1番については、小3でも解く子はいるし、小6でも解けない子がいる、ということは、そのことを如実に反映していると思います。

  わたしが危惧するのは、竹の会の指導を評価してくださる親御さんたちが、指導に期待するあまり、効果が停滞するのに退塾を望まないという事態です。どうかそういう場合は竹の会に見切りをつけていただきたい、切なる願いです。

 ◎作文とは何か

 子どもたちの作文を添削するときに、わたしが、まず評価のポイントとするのは、「問いに答えている」か、ということです。たいていは、案の定、まず「問いに答えてない」、「問いの指示を全く無視している」ことです。ひどいのになると、「400字以上」と指示されているのに、200字にも満たない、というのがありました。「筆者の見解をふまえて」とあるのに、全く触れないで書く、というのもあります。

 よく作文教室なんかでは、起承転結ということを指導するところもあるようですが、これも「問い」次第ですね。まず、「問い」が何を書け、と言っているのか、でしょ。「問い」に「答える」という姿勢が、常に、なければならない。

 一番多いのは、経験し、見聞したことを、そのままの順序で書くものです。もっとも初歩の形式です。岩淵悦太郎は、これを、「この種の文章は、段落の働きは、ともすればそれからそれへと、とりとめもなく移っていく視点を、場面場面にすえさせることであり、それにとどまる」と喝破しています。子どもたちの文章にはこういうのが多いですね。

 この関係では、やたら改行した作文というのが、あります。極端な例では、一文ごとに改行しているわけです。こうなると、これはもう段落なしの文章と同じことです。

 そもそも段落というのはなぜ必要なのか。

 それは文章というものが、そもそも何を目的に書かれているのか、ということに関係する。人は、だれをも納得させる文章を書こう、と考えるわけです。

 それは、今、これから書こうとする文章が、だれに対して書いているのか、ということから自ずと決まる。その上で、これにふさわしいように内容を考える、これが、「構想を立てる」ということである。

 内容を考えるというのは、まず、書くテーマをはっきりと見定めることです。次に、テーマを展開する順序を考えます。そしてテーマの肉付けになる資料を整える、手順になります。ここで、起承転結というのが言われるのでしょうけれど、わたしはそんなものに囚われることもない、と思います。

 こうして作文を書くときは、まず構想を立てることです。それは、テーマとの関連で、内容によって段落を分けることです。各段落に書く内容を定めるのはもちろんです。

 よく「あなたの意見を書きなさい」というのが、ありますけど、高々小学生くらいに「あなたの意見」なんか期待しているはずはないのです。大人だってわからない問題に子どもの意見などありようがないでしょ。

 これにたいして、「問題の意味の分析」はかなり書けるところです。「問題提起」というのは、「なぜそれが問題なのか」、問題の生じる原因について書くことなのです。それから「定義」ですね。定義というのは、あなたの定義です。あなたがどう定義するかは、あなたの価値観で決まることですから、定義はあなたの価値判断です。「高齢化」とか、「温暖化」というとき、原因について分析し、そこから「高齢化」、「温暖化」を定義していくわけです。「あなたの意見」は、解決の方向性を示唆する、それだけでも成功です。

 子どもたちの作文を読んでいると、同じことを何度も繰り返すのがありますが、同じ言葉は二度とは使わない、ことです。

 よく勘違いしているのが、「あなたの経験をまじえて」と指示されているときです。これは、具体的なあなたの体験が、あなたの主張の根拠となる、ように書きなさい、という趣旨です。子どもたちの勘違いはちっとも具体的ではないことです。具体的体験です。あなたが、学校で、「嫌がらせを受けた」と書いても、それは具体的体験ではありません。あなたが、いつ、どこで、だれから、何を、されたのか、そこまで書いて初めて具体的です。自分の体験を求められているのに、「友だちのA君の体験談」を書くのは間違いです。おばあさんが子どものときに体験した話しを聞いたものとして書くのも具体性は限りなくない、と言えます。「あなたが何をしたのか」具体的に書いてください。今、竹の会のみなさんは、四字熟語の由来文を200字にまとめる訓練をしていますが、あれなどは、具体例と定義が見事にまとめられています。定義というのは、抽象的なものです。まず、四字熟語の抽象的な意味、つまり定義について書くことです。次に、四字の由来を書きます。具体例で四字を根拠づけていくわけです。作文というのは、これでいいのです。まず、抽象的な定義を書く、次に、具体的な由来を根拠にする。これです。

 ただ都立中受検の作文は、とにかく「問い」との関係で書く内容が規定されてしまうということです。だからまず「問い」を箇条書きで書き出して、そのひとつひとつに答えていく、それがいいと思うのです。

 桜修館の作文は、桜修館の塾対象説明会のとき、大手の担当者が批判的に言っていたのは、作文で何人も失敗した、今年の、弥次郎兵衛、つまり釣り合い人形が、なんのことかわからなかった子が続出したというものだった。少なくとも釣り合いというのに気がつかないとアウトでしょ。桜修館の作文は、写真や図などを見て「考えたこと」を書かせる体裁である。写真や図から思い浮かべることはまずある。しかし、そこから離れて飛躍してしまうとおそらく問題の意図から外れる、かつて板3枚の写真が出たとき、そこから、地球温暖化まで書いてしまうと、これは外れてしまうだろう。桜修館の作文は、写真などで具体的なものが示されるのが形式的特徴である。具体的なものには、抽象的定義を導くのがセオリーです。定義は社会的視点、グローバルな視点ほど説得性がある。こうして桜修館の作文では、与えられた具体的なものからあなたの才覚で抽象的な定義をいかにして導き出すか、これが勝負であり、これが問われている。竹の会では、桜修館の作文を想定した50以上のテーマにつき、そのような訓練をしてきた。

 小石川などの作文は、まず読解文を読ませた上で、筆者の主張をふまえて、あなたの体験を根拠にして、あなたの抽象的定義を求める、体裁である。小石川の場合、国語読解力というのが大きく影響する。本文を正確に読み取る能力が試されるとともに、やはりあなたの体験と定義が求められている。

 こうして、作文とは、定義と体験からなる。あなたたちは、普段から、体験ノートに体験をまとめる訓練をしなければならない。たとえば、学校の理科の実験で何の実験をしたか、そしてその感想などをノートしておくのである。学校給食の体験について、運動会の事件について、とにかく、これはいつか書こうという体験をノートしておくことだ。体験のまとめは必ず定義でまとめる。

 いや作文に上達するとは、抽象的表現にまとめることがうまくなることだといっていい。具体的なものは必ず抽象的表現に言いかえて、定義化しておくことだ。普段からいろいろと具体的なことを抽象的に言いかえる練習をするのが作文の練習になるのは当然である。

 

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