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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立中高一貫校への道/トップ都立高校への道/港区至近の竹の会/その他

2017.10.20

 おはようございます。連日の冷たい雨の中竹の会の子どもたちは変わりなく元気に姿を見せてくれます。竹の会はご存知のようにほとんどの子が他区から通っております。特に、渋谷から1時間前後かかる葛飾区、荒川区、杉並区、大田区などから熱心に通われるみなさんには頭が下がります。遠くから見えられるみなさんのためにも竹の会は指導技術、水準の向上に日々努めなければならないと自戒しております。わたしには意外であったのは、実は教室までは港区が近いということでした。港区の場所にもよるのでしょうが、塾近くのバス停「渋谷車庫前」までバスで10~15分らしいのです。これは渋谷駅行きのバスに乗ってくる渋谷区の子たちよりはるかに近いわけです。竹の会が渋谷駅近くに移転して今年は6年目を迎え、竹の会創設から33年目になりますが、ようやく23区を対象に生徒を集める、という竹の会積年の夢が実現されつつあります。渋谷教室は渋谷駅から徒歩10分、南口なら7分、恵比寿駅から10分、明治通り東交番のある角を入ってすぐの、なんとも静かなところにあります。親御さんの中には、小3、小4の子を遠くから電車、バスを使って通わせるということに躊躇される人もいますが、決心して申込をしてくるという人もいます。ただ竹の会では入会試験がありますから、必ず入会できるわけではないのですが、事実せっかく遠くから試験を受けに見えられたのにお断りするということもよくありました。入会試験には落ちてもなんとか救済の途はないかと考えた結果今のような仮合格という制度ができました。指導すれば見込みがあるかもしれない、という見込みがあればということですが、その目安となる問題というのがありまして、これができなければ指導しても無理だろういう問題があります。ただなにぶんにも仮合格は仮合格でして指導困難という局面も覚悟しております。そのために仮合格の場合、親御さんにはこちらからする一方的な退塾もあるということを予めご承知いただいております。ただわたしの子どもの潜在する可能性の鑑識眼というものもそれなりに優れておりまして、かなり正確に見抜く、むしろ仮合格で伸びる芽を発掘するということもあります。が、外れもありまして、こちらはこちらで竹の会に慣れ親しんだところで指導を打ち切るという残酷な点に正直苦悩しております。

 実は、現中1の入会を認める際にも、条件をつけております。本来竹の会では中学は学年トップクラスでなければ見ないことになっています。が、現中1については、そこまで厳しい基準を求めませんでした。きちんと竹の会の指導にしたがってくれるならという最低限の条件のみです。この条件さえまもってくれれば、少なくとも数学、英語60点などという、塾に行かなくても取れるではないかと突っ込まれるような点はとらないと思うのです。それでわたしは60点をとれば退塾という目安を設けたわけです。このことは中1のみなさんもどうか承知しておいてください。

 小6受検の子たちが、もし失敗して竹の会に中学でも通いたいという場合、ひとつの条件を課したいと思います。それは早稲田進学会の模試で上位に一度でも名前を載せたことがあること、です。そういう子であれば、中学でも指導してトップ都立をとることはまず間違いないからです。正直言いまして、竹の会があとどれだけ続けられるか、体力的理由なのですが、いつも考えておりまして、こういう中でわたしは都立トップ校に入れるだけの能力に恵まれた子ならわたしの高度の指導技術を宝の持ち腐れにしないで済む、そういう思いがあります。

 わたしの指導技術をもってすれば、それなりにできない子でも人並みの成績には伸ばすことができることはわかっております。しかし、もうわたしにはそういう子たちを気長に、わたしの高度の指導の粋を使うこともなく塩漬けにしたままで、つきあうだけの気力も時間もないのです。これからの1年、1年をわたしは23区の、少数の、秀才を指導して、最後に、竹の会をしめくくりたいと願っております。

 勉強や受検で勝ち残る人というのは、非凡な人ということですが、何が非凡なのかと言えば、それは平凡に日常生活を送ることにおいて非凡なのだと思うのです。平凡な人というのは、平凡に暮らすことに飽きて、何か日常性を破ることばかりを求めて、日常を無為に過ごす人たちです。習い事、稽古事、その発表会、進級試験、それから家族旅行、盆正月の実家帰省、クリスマス、連休のレジャーと日常性を破る計画には事欠きません。受検に失敗する家庭というのは、この日常性の中の非日常を楽しむ普通の人たちです。非凡というのは普段の無味乾燥な日常に耐えられる、むしろ日常の生活の中に喜びを見出す人たちのことです。こういう非凡な人たちは、自分の日常を壊されることを極端に嫌います。もくもくと勉強を日常として組み込んだ人たちには日々の日常こそ最高の充足をもたらしてくれるのです。平凡に飽きた人というのは、常に非日常を求めて、軸がない、いつもブレています。平凡なことを嫌がります。将来職についてもこの習癖は変わらず、すぐに転職しては新しい気分を求めます。真実は日常の中にある、あったということを悟らないままに、過ごしてきたことは、ほんとうに不幸なことです。芸能人の二世、三世が事件を起こすのも日常を、平凡を無価値として育ってきた報いでしょう。

 わたしは日常性、平凡性軽視の風潮に失望しているのです。習い事、稽古事を5種類もやっている子がいましたが、この子には非日常しかなかったのだと思います。ところが受検というのは日常性、平凡性を本質とするものです。こういう家庭には受検は最初からそぐわなかったのです。親が子どもに何をしつけるかと言えば、それは平凡な生活、その中に勉強というものを当然のように取り込むことです。親がその日常性を壊すなんてありえないのです。親は子どもにとっての日常性、平凡性を第一に行動しなければならない。これがほかならない、教育ということではないかと思うのです。

 あとひとつつけ加えておきますなら、中学で伸びる子というのは、勉強というものを大切に考えるものです。それはひとつの科目にも全力をかけて理解につとめる子です。よくわたしが思うのは、できる子というは、科目に穴がない、とにかく満遍なくできる。ひとつの科目を勉強するときも実に満遍なく勉強している。教科書をじつくりと読み、ノートにまとめ、学校配布の問題集も満遍なく解き、ワーク類もこれまた満遍なくチェックする、そういう満遍なくやるというところが、違うのです。とにかく黙々と根気よく勉強に取り組んでいる、ということです。

 こうした勉強をやらないで、できる方法を探すというところから間違っています。塾に行ったってそういう子ができるようになるはずがない。親も含めてあまりにも安易というか、勉強というものをなめすぎています。

 ◎先送りするから失速する

 小学生を指導していて最近よく思うのは、小6の9月以降になって失速する子たちのことです。元気がなくなるのです。それは成績が伴わないことを本人たちが自覚せざるを得ないからです。能力的には普通より上にある子たち、したがってもう夢中でやってきていれば決して失速などしない、それどころか上昇していく子たち、そういう子たちが普段の生活で勉強をなにかと先送りしてくればどうなるか、これほど自明なことはありません。特に、小5という遅い時期に入会してきた子たちには、先送りは致命的です。先送りというのは、当面やらないで積み残していくということですから、先送りの体質が大量の積み残しを残す、これは何を意味するかと言えば、実力はない、ということなのです。実力をつけるというのは、それは何かをやりながらつけられるという半端なものではない。とにかく日々与えられたものを夢中でやる、積み残さない、この積み重ねが、薄紙を貼るようにほんとうに目に見えないほどの実力の層を形成していくのです。後からまとめて一気にやったら、日々努力を積み重ねた人と同じ力がつくというほど単純ではない。ああでもない、こうでもないと悩んだ時間に比例して薄い層が次第に厚くなる。即席で終わらせたことにしてもつるりと剥げてしまう程度の薄っぺらな層でしょ。小6で今勉強時間を聞いたら、2~3時間という子たちがいましたが、それで受かるほど甘くはないでしょ。最低4時間、できれば5時間です。休日は10時間です。かつて杉山太一君は17時間という記録を残しております。こんなにも勉強している人がいるのに3時間はないでしょ。杉山太一君は9.11のテロでお父さんが犠牲になった人です。22年に桜修館に合格し、6年後に京大法に合格しております。その杉山君が受検時代にわたしの一日10時間という約束を果たしたのか、問い糾したとき、「17時間やりました」と明快に応えたものです。それが偽りでないのは、わたしが金曜日に月曜日提出と課した百ページ以上の過去問のコピーを持ち帰り、見事にていねいな字で完璧にやりあげてきたことでわかりました。彼は書道七段でした。合格する人というのは、そういう凡人の真似のできない、強い精神に支えられた勉強をしてきた人です。わたしが小6のみなさんを見ていて不満に感じるのはそういうスピリットというものが明らかに欠落しているからです。

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