画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立小石川、桜修館への道/都立日比谷、西、戸山への道/木鶏の境地/同調/竹の会は小4の2月まで

2016.04.20

 おはようございます。本日は渋谷Aの指導日です。昨日に引き続き晴天、初夏の様相です。この心地よい季節を、一年にほんの一瞬、4月だけかもしれない、この季節を慈しむように新緑と降り注ぐ太陽光の恵みに目を細めながら楽しんでおります。昨日は、新宿まで歩きました。明治通りを歩いたのは何年ぶりのことか。第二の心臓と言われるふくらはぎ、やはり歩かなければどうなるか、いつも気にはしているのですが、受験の時期には、どうしてもそういうことを先送りにしてしまいます。

 すぐわかることなのですが、小6になって計算力もない、割合も理解していない、そういう子たちというのは、例外なく思考力というものを持ち合わせていません。培ってこなければならなかった小4、小5の時期の過ごし方ですでに失敗しているのです。わたしはいつも思うのです。世の親というのは、こういう取り返しのつかないことをなんでしてしまうのかということをです。わたしは、大手の塾を、いや巷の中小塾だってもっとひどいかもしれない、害だと思っています。もともとのIQの高い子たちがどれほど集められるか、本音のところはそういうことなのだと思うのですが、世の親というのは、いやこれは人の、人間の思考癖なのかと思うのですが、とにかく周りに同調する。大手に人が集まる、というのもそういう人の本質なのからであろうと思います。親は自分の考えで行動していると思っているだけで、実は他人の動向に同調しているだけでしょ。

 わたしは天才でもない自分の子を大手に、いや巷の塾に通わせることが、とりかえしのつかないことになると前々から訴えてきました。それが紛れもない真実であるということは、わたしはもう十年、二十年も前からたまたま竹の会にやってきた、大手で1年、2年を過ごしてきたという、いまさらどうにもならないほどに思考の欠片も「ない」のではないか、と思わせるほどに凝り固まった子たちを見てきたからです。小6になっても、計算力は未熟な状態のまま、割合は、テキストの単元にあったことを終わらせただけ、つまりは、何もわかっていない、そういう子ばかりです。そもそも割合という概念を使って思考形成をしてきたなどということはないわけです。そのくせに、計算はできる、割合も理解している、という過信だけはもっている。そして親もそういう子どもの言葉をそのまま信じている、という、これが世の中の、大手に通う親子の真実です。

 わたしは、九段の合同説明会にチラシ配りに出たのは、3年前のことだったと思うのですが、あのときは、もう見向きもしないで、前を一直線に突き抜ける母親や父親の姿を見て、だめだこりゃ、と観念したものでした。すでに大手に子どもを通わせている、だから関係ない、そういう態度でしたね。チラシなんか配っても、騙されないわよ、そういう態度でした、竹の会など眼中にない、そういう風に見えました。1000人以上の人にチラシを配ったようです。しかし、1名として竹の会に問い合わせてきた人はいませんでした。去年は、小4の3月にきたのは、1人だけです。わたしが、合格するためにもっともいい入会のタイミングと考える、小4の2月に入会者がいなかった。竹の会創立30年目の年でした。わたしはこないものはどうにもならない、そういうことなら公立中高一貫校の指導にこだわることもない、もともとの専門である高校受験指導を再開させるまでだ、と頭を切りかえました。まあ、はっきり言えば、大手の人集めにはとてもかなわない、敗北宣言ですね。世の親のとにかく大手へという態度に無力を感じましたね。そういうわけで去年の10月から高校入試を再開させた。公立中高一貫校受検の小学生は、2人もくればいいと割り切った。もともと竹の会にはそんなに受検の子はいなかった。平成18年には、九段志望の1人だけでした。もっとも東大附属を受けるという小学生はほかに2人いた。平成19年にその3人いた小学生が3人とも志望校に合格してしまった。それでわたしもそれなら公立中高一貫校指導に専念し、高校受験指導は廃止しようと思った。都立の凋落、公立中学で学習不振児が蔓延していたという時代でした。元代々木教室のように地元密着の塾で、学習不振で悩む地元のバカ中学生の相手をすることに嫌気がさしていた時期でした。まあ、公立中高一貫校もスタートして10年、手探りだった大手も今は、いかにも対策があるみたいなことを言って大量の人を集めて商売にしてしまった。エナなどは上場してこれから小学生を持つ親たちを金儲けの対象として企業の利益を追求する、という姿勢も鮮明になってきた。そういう企業に自分の子どもを入れてどうなることやら。親は大手で失敗してもまだ中学がある、どうにかなると思っているかもしれない。そこがバカなのである。中学というのは、まずもともとの天才であることを前提として、そういう子が、小学4年の頃から、思考というものを徹底して鍛え上げられてこそ、裏から言えば、勉強の習慣、スタンスというものを生活の一部として定着させられてこそ、伸びる、力を発揮できるところなのだ、ということである。竹の会で小学5年、6年、とにかく1年でも過ごした子たちが、たとえ受検に失敗したとしても、公立中でトップクラスにいる、ということはだれも知らないでしょうが、それは知られざる真実です。

 そういうわけで竹の会では、新小4の募集が焦眉の急です。将来、小石川でも桜修館でも、合格できるほどに育っていく可能性を秘めた逸材が、2人でも3人でも、しかし、3人までですが、とにかくきてほしいと願っています。幸いなことに、新小5は、予定の3名、しかも逸材が集まりました。今の私なら、小4の2月にA合格した子なら確実に合格させられると思います。

 竹の会にくるには小4の2月までです。それがもっとも成功の可能性が高いのです。

◎高校受験は竹の会の専門

 竹の会は昭和60年10月にスタートしたときから、高校入試の中学生を専門に指導してきました。竹の会のような小塾には大手のように難関私立をめざす生徒というのはほとんどきません。ところが、様々な有名塾を渡り歩いた生徒が、昭和60年の12月に竹の会にやってきた。その生徒が中2のときでした。その生徒は62年2月に青山学院高等部と市川高校に合格したのですが、このように私立難関をめざす生徒がときたまいた。それは大手塾で落ちこぼれた秀才というのが普通でした。竹の会は開設当初から都立高校専門の塾であった。都立をめざす子たちが集まった。そういうわけでもう30年以上も都立入試を指導してきた。

 竹の会が、今の竹の会がどのように形成されてきたかを語るには容易なことではない。今のようなレジュメ指導という方法が確立されるまでの過程というのはそれはそれは長い時間と試行錯誤を要したのであるから。それはパソコンの進化と比例するように変遷してきたとも言える。塾にとっては、子どもたちを指導する際に使う教材がひとつの重要な問題である。大手が自前のテキストを用意するように、中小の塾も塾用のテキストを教材会社から調達して使うように、テキストを使い、そしてその前提となる集団授業が、主流であった。その弊を糺すように、少人数制、個別授業、個人指導などが生まれてきた。

 竹の会は、そういうなかにあって、独自の、本物の塾とは何かをライフワークにしながら、常に、理想の指導形態、理想の塾とは何かを追究してきた。追い求めてきた。今の竹の会のシステムはわたしがもっとも子どもをいいかたちでのばすことができると到達した、理想の指導形態である。ひとりの落ちこぼれも出さない、理解を確認しながら前へ進める、理解の確認、日々の確認を決して怠らない、思考を鍛える、思考することの大切さを教える、勉強の姿勢を習慣づける、勉強のスタンスを確立せる、子どもをひとりの尊敬できる思考人に育てる、これである。

 竹の会は、都立戸山に普通の勉強で自然に合格まで導いてきました。やったのはわたしのレジュメだけ。ほかになにもない。平成20年の都立西合格もわたしのレジュメだけでした。レジュメはわたしの二十数年の高校入試指導の経験がもたらした簡にして要を得た珠玉の作品集です。量は少ないけれど、質においてあらゆるものを凌駕するものです。数学ならわたしの最高傑作「高校入試問題撰」は、たったの70問です。これだけで私立難関レベルの数学なら70%とれます。都立独自数学も当然70%です。これだけです。わたしは、そういう珠玉の作品とも言うべきレジュメを英語、国語にも制作・執筆してきました。わたしの「新国語読解」をやった本年戸山合格者は、途端に国語偏差値70、本番の独自問題国語で86点をとりました。

 高校受験こそ竹の会の専門です。竹の会では、将来進学指導重点校の日比谷、西、戸山、青山をめざす小学生を募集しています。

◎木鶏(もっけい)の如くに

 はやる心、勝ち気にはやる心は、失敗の元となる。坂岡真の時代小説に出てきた「木鶏」という言葉が気になった。「勝ちたいなら、木鶏になれ」。

 不動心を磨くこと、その到達点が木鶏とされる。不動心とは、ブレない心である。坂岡真は言う、「木の鶏は気配を悟られぬ」と。

 わたし流に解釈しましょうか。勉強するかどうか、そこで思い悩んではならない。怠けて何もしないのは、転落を現実にする、それは高所から飛び降りれば落ちる、死ぬのと同じくらい自明のことである。勉強するという一点においては、木鶏になることである。木の鶏は悩まない。実行するというこの一点においては悩むところではない。余談だが、よく本番直前におしゃべりになる輩がいるけれど、話すということは、そのままに隙である。よくドラマで犯人が追い詰められて、人質なんかとって、犯罪にいたった経緯を説明する場面があるけれど、それをじっと聞いている刑事の間抜けさが笑える、話すのは隙である。つまり、試験直前にべらべら話すのは隙だらけになるということ、そういうときこそ木鶏になることである。

 わたしたちは、時として、木鶏になることが、必要である。学校から帰ったら、そのまま机について勉強をする、この行動においては、木鶏のごとくにならなければならない。なにか欲望が起きたら、木鶏になること、これである。

IMG_4476

昨日の日没

IMG_4449

渋谷のある庭園

ページトップへ