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竹の会の先生にやっと報告できる

2020.03.24

竹の会の先生にやっと報告できる
 竹の会27年卒業、都立戸山合格のお母様から、メールでお便りがあった。
 一橋大学社会学部に合格しました。
 
 令和二年受験 一橋大学社会学部合格

 「阿部先生にその後の様子をお伝えしに伺いたかったようですがまだ〇〇自身先生に胸を張って報告する事が出来ずにいましてこの時期になってしまいました。
 昨年は2点差で涙を飲みましたが掲示板に番号を載せる大変さを身にしみて感じ改めて阿部先生の気持ちがよくわかりました。」(お母さま)

 実は、平成三十年、三十一年と報告を待っていました。しかし、三十年は報告なし、年賀状がなかったので、一浪かなと思っていました。今年の年賀状には、都内の大学に通っていると意味深なことを書いてありました。そして昨日のお母様からの報告メールでした。都内の私立大とは、明治大のことだとわかりました。去年は、センター利用でほかにも東京理科大、立教にも合格していたとのこと。
 わたしが、普段、大学をあげるとき、旧帝大、早慶をあげて、一橋、東工大を思い出したようにあげてきたことが、阿部先生に報告できる大学ではない、と思わせてしまったのかもしれもせん。わたしの無意識にあった、大学と呼べるのは、を読まれていたのかもしれない。

※帝国大学(ていこくだいがく、旧字体:帝國大學)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された旧制高等教育機関(大学)である。内地に7校(七帝大:東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)、外地に2校(京城、台北)が設置された。

 東大の民法学の故我妻栄先生は、日本の民法の礎を築いた鳩山博士の弟子でしたが、我妻栄先生のお子さんはみな東大であったと記憶していますが、医学部に進まれた息子さんが、いつかジュリストの特集の中で、「父は大学は東大しかない、と考えていたようだ」と述懐しておられましたが、わたしの中に、高学歴というとき、先の大学を念頭に置いて語ってきたということがあるならば、わたしの読んできた書物に少なからず影響があったのかと思います。わたしの愛読書「現代政治の思想と行動」は、東大政治学を確立させた丸山眞男であったし、民法学は、我妻栄の「民法講義」で勉強した。この本は、第一巻「総則」、第二巻「物権」、第三巻「担保物権」、第四巻「債権総論」、第五巻「債権各論(4分冊)」からなる大著であった。残念なことに、不法行為と親族相続がなかった。不法行為については、東大の加藤一郎元学長の法律学全集に収録されたものが有名であった。我妻先生もこのシリーズで親族法を担当していたが、一粒社から出ていた我妻、有泉の通称ダットサン民法Ⅲが人気があった。

 ちなみに、先に出た鳩山博士は、あの鳩山首相の祖父であったと思う。我妻先生は東大を首席で卒業されましたが、そのとき同じく首席だったのが、あの岸信介首相でした。
 東大には、有名な先生がたくさんいた。刑訴法の平野龍一、民訴の三日月教授、手形法も三日月と東大はいい先生がたくさんいて羨ましかった。
 もちろん私立に有名な先生は少ないがいた。中大の渥美東洋は刑訴法で有名だったし、立教の田宮教授も有名だった。東大の松尾浩也教授とは、同期の俊才と言われた。憲法は、宮澤俊義、清宮四郎が定番だったが、後に東大から芦部教授が出た。民法も東大の星野教授や四宮四郎が良かった。四宮の民法総則は今でも名著中の名著と言われている。刑法は東大の重鎮団藤博士の弟子、名古屋大の大塚教授の刑法概論が定番だった。
 高学歴とは何か。
 大学出てたら高学歴なのか。
 大学は腐るほどある。
 誰かが言った。東北大に合格したのか、高学歴だな、と。私の周辺、特に、大学の仲間たちは、大学出た人一般を高学歴とは言わない。「どこでも」大学は大学とは言わない。昨今は大学定員の半数は推薦て入学する時代である。私立の頂点にある早慶でもその例外ではない。その半分は推薦だ。そのためか小学校からエスカレーター式に大学生になった者にはどうにもならないアホが多い。流石に中学受験で入った者にはバカはいないと思うが、エスカレーター式大学の例に漏れず、怠惰で不勉強な者が多い。これは難関と言われる慶應高校でも同じだそうで大学に進んで単位を取るのに苦労する学生が多いのだそうな。
 せっかく慶應出てもまともに就職できない学生も少なからずいる。慶應でこれである。昨今は京都大でさえも推薦で入れる時代であるが、ただ流石に旧帝大にはその割合は少ないと思われる。
 ただ大学出ただけではなんということもない。何を学び何を成したかである。高学歴大学を出たとしてもそれだけでは何も意味がない、ということである。
 高学歴大学に入ることはまず第一歩でしかない。
 ところで、話しは、そう単純ではない。
 東大入って官僚になって、権力を笠に着る人間になる、弱者のことがわからない人間になる、それでいいのか、という話しである。
 これはおそらく環境に規定される。生まれたときからの環境に規定される。自省的で、哲学的な思考をさせるような環境にあったか。他人を見下す教育を受けてきたか、つまり親、世間に見事に洗脳されるほどの才覚でしかなかったか、つまるところは、個人の品性、品格の問題となる。
 ネットの住人には、この品格がない。匿名性が旅の恥はかき捨てと同じ心理をスイッチオンさせ、責任、良心という軛から自由になり、野卑な、最も醜い人間の面を剥き出しにする。
 生存競争を生き抜くということは、人間から人間らしさを奪う危険に満ちている。人間性の欠落した人間が社会を支配するという構造が悪いというふうにはならないのは、そもそも正しいとはどういうことか、絶対的な答えというものがないからである。東大出た知識豊富なエリートが、放射能の垂れ流しを公然と隠す、公然なのは、政府も知っていて知らんぷりしているからである。
 高学歴だから人間の品格、品性が担保されるわけではない。学問をすることが必ずしも品格を磨くことにはなっていない。

 この生存競争を生き抜くには確かに高学歴大学を出るのが確実だけれど、これだけでは、人間の品性は担保されない。人間にとって本質的なもの、それは学問ではない。人間の品位、品性、品格ではないか。品格のある人間になるにはどうすればいいのか。学問が大切であることはもちろんとして、人としての生き方に行きつく。信念をもって生きる。信条にしたがって生きる。誠実に生きる。他人を陥れる人間になってはならない。

 ともあれ、

 🈴一橋大学合格🈴おめでとうございます㊗️㊗️

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