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合格請負人(2)

2020.01.24

 

第55章 合格請負人(2)

理科、社会と合格請負人の仕事
 これは、小学と中学では、当然その仕事の内容が違う。
 小学生には、思考の下地がない。思考の下地がない子に知識を詰め込むのは、いろいろな意味で害悪をもたらす。この時期こそ超低速回転ジューサーの思想が必要なのである。よく暗記科目だから覚えることを勉強だと勘違いしている人がいるが、純粋に暗記する、という知識はもちろんあるにはあるが、私たちは、思考することによって、暗記事項を最小限にすることを学ばなければならない。何かの概念を学ぶとき、その概念から論理的に派生する概念は覚えなくてもいいように、推論して繋がるように整理しなければならない。あとは確認するだけでいい。

 ここでメモを取る場合の方法を述べてみたい。
 作家佐藤優は、雑誌のコラムで、特派員が、電話で記事を本社に伝えるとき、勧進帳と呼ばれるメモを見ながら、記事を文章化して、掘り起こして、伝えているのだ、ということを述べている。勧進帳とは、弁慶の勧進帳が有名であるが、要は、寄付をしてくれ、と書いた巻物のことである。

かんじんちょう【勧進帳】
①寺院の堂塔の建立などに要する金品・材料の寄付募集の趣意を記し、巻物などにしたもの。僧や山伏が民衆から寄付を集める時に読み聞かせる。
②作品名(別項参照)。
かんじん【勧進】
(名)スル
①仏の教えを説き、信仰に入らせること。仏教を説いてまわること。勧化。
②寺社・仏像などの造立・修復のために寄付を集めること。勧化。
③出家の姿で物乞いをすること。また、その人。「はやりうたを歌い━をすれども/浮世草子・世間胸算用5」

 佐藤優によると、記者が使う勧進帳というメモには、固有名詞と数字しか書かないのだそうな。記者は、記者会見に出て、この勧進帳を作る。そして電話で、この勧進帳を見ながら、文章を組み立てながら、読み上げる、いわば即興の文章化である。
 これは、勉強に参考になる。
 弁慶は、白紙の勧進帳を見ながら読み上げたが、記者は、勧進帳にメモした、固有名詞と数字を見ながら、話を組み立てて、文章化して、伝える。
 さて、ここで、わたしが、提案したいのは、勉強の際に作るメモ、サブノートに関してである。サブノートを文章で書くのは、無駄である。それなら原本を何度も読むほうがましである。表にまとめるのは、程度もので、あまりに細緻な表は、かえって頭を混乱させる。シンプルな表ならいい。かつて旧司法試験の時代に、「択一の鬼」という人がいて、択一試験には必ず受かった。その人が、作っていたサブノートが、虫食いの文を作って、直前に、虫食いの部分、つまり空欄を思い出すというやり方だった。これも手間暇かかるやり方だったと思う。表は何のために作るかと言えば、理解するためであり、確認するためである。固有名詞と数字だけというのは、ある意味大きな虫食い式とも取れる。年齢を重ねればわかるが、固有名詞と数字はなかなか覚えられないし、すぐ忘れる。サブノートというのは、固有名詞と数字だけで後は論理でストーリにする、これが正解なのではなかろうか。
 知識というのは、後で、組み立てられるように、準備しておく、それが勉強するということの内容ではないか、と思う。
 さて、こうして、小学生に、理科社会を指導するということの意義を感得してもらえたであろうか。
 小学生には、知識ではなくて、ストーリーを与えるのが、効果的である。なぜの社会、なぜの理科を植え付ける。具体的に、興味を持ち易い内容を与える。子どもたちの脳内に入り込む工夫というのが日々求められるのが、小学生対策の理科社会である。
 小学生には、思考で、知識を節約するという高等技術が、無理だからである。彼らには、興味を引き出す、引き起こすように、導いてやらなければならない。
 
 中学生は、どうなのか。少なくとも竹の会で学んだ小学生なら、既に思考の形は作られている。それを前提にして、理科、社会の方法を述べるならば、知識の節約ということを常に考えた勉強をしていかなければならないであろう。知識の経済とは、具体的には、例えば、リトマス試験紙の色の変化は、青から赤が酸性と覚えておけば、その逆は、覚えなくていい、ということである。複数の事象を覚えるときは、その複数の事象の共通点をまず掴む。その上で、違いがなぜ生ずるのか、考える。中学生というのは、思考の経済を考えながら勉強するということを練習していかなければならないということだ。
 ところで、こと都立高の理科、社会については、その戦略という側面から、やりかたが規定されてくるということを知っておかねばならない。考えても、見て欲しい。例えば、社会なら、せいぜい20問、小問レベルで言えば都合60問そこそこである。これで、地理、歴史、公民から、出題するのである。これは、細かい知識など不要ということである。大きなテーマ単位に大まかに大きく掴んでいくことが理にかなっている。この事情は理科も同じである。そこから都立入試の理科社会は、やりようによって点が取れる、ということが見えてくる。
 ここに合格請負人の仕事も見えてくる。 

◉思考のスイッチの入れ方

 これしかない、と思ったときに、考えるスイッチが入る。これは大切なことです。例えば、いくつかある方法の選択肢で悩んでいるとしたら、思考スイッチは入らない。「もうこれだけしかない」とわかったとき、思考のスイッチが入るのだ。これは人間の本能と関わるのではないか。人間というのは、これしかないというとき、初めて考える、後がないから考える、考えるしかない。というか、これひとつしかないというとき、人間というのは、最も力を発揮するのではないか。どんなに優れた手段でもそれが何個かあると、迷いが生じる。迷いというのは、集中には天敵である。人は迷うときは、判断そのものができない。これに焦りが加わると思考はパニックを起こす。焦りは時間を限られるときに生まれる、時間を母とする。焦りは完全主義を父とする。合格しなければならない。一番をとらなければならない。100点をとらなければならない。完全をめざすから焦るのである。
 迷ったら、勝負は負けである。道に迷う、という。迷うのは、欲が深いからである。あれこれといいものを欲しがるからである。最初から一つしかなければ何も迷わない。一つなら迷いそのものがない。迷いを封じるのは、一つしかない状況にすることである。つまりあきらめることである。あきらめたらもうもう一度などとヨクを出さないことである。一つしかないという状況は、集中という精神作用をももたらす。一つだから集中できるのである。
 
◉都立中高一貫校と模試
 竹の会では、平成22年から早稲田進学会の模試を進めたきた。しかし、近年ここの模試で判定することは困難になってきている。早稲田進学会は塾らしきこともやっており、そうなるとどうしても在塾生に有利な出題となる傾向は否めない。昨今は、過去の模試で出した問題を使い回している節もある。何よりも模試参加者の激減が、昨今の模試事情を写し出している。大手の、エナ、大原、Z会、日能研、その他が、それぞれに模試を実施するから、受検生が、分断されて、分散してしまい、志望の中学の志望者を統一的に把握できないのである。模試の信頼性がこれほどなくなったのはかつてない。
 偏向的な問題を出しているなら、それはもはや判断の根拠とはならない。わたしが知りたいのは、客観的な位置である。都立高入試なら、都立志望の全中学生が参加するV模擬、W合格模擬がある。都立中学入試にはこれがない。
 このような状況下で、模試を読み解くことが、求められている。
 まず、極端に、いいとか、悪いとか、は、除いて考えなければならない。
 基礎的な能力があれば解ける問題なら、極端に悪いのは、基礎力がないからである。また、偏向問題としたら、極端に、いいのは信用できない。余程の天才か、予めなんらかの形で知っていたからできた、ということになるからである。模試を語るとき、本番の問題との偏移がどの程度かが重要となる。本番の問題は、チームで何か月もかけて、練られて作られたものである。そういう問題と、どのように作られたかは知らないが比較的量産して作られる模試の問題を同列に扱えるはずがない。ただそのようなできの悪い問題でも、能力の序列は、同じ条件という前提が満たされるなら、出てくるし、それはそれで序列としては、意味がある。
 いろいろ書いたが、要は、それなりに上位にあれば、いいということまでである。
 

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