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都立戸山と日比谷・西の分岐点、東大生に習えば利口になるのか、天才の方法を真似すれば成功するのか、判断のヒントなど

2016.03.30

 おはようございます。今日は20℃までいくそうです。朝からもう20年以上飼っているカメの世話、ランチュウの世話、レジュメのプリント・アウトなどに追われて、今ようやくブログの時間がとれました。

 下火になったとはいえ今もインフルエンザが流行っているのだということを知りまして、意外な感じがしましたが、子どもたちは、溶連菌やらその他の正体不明の熱を出しては、対症療法でしかないクスリをのみ、おそらくは自然治癒ししているのだと思います。内科医というのが、原因をあるいは病名を仮定して出すクスリは90%以上は的外れなのだと思います。外科医で切って原因を取り除いたけれども思わぬ正体不明の後遺症に苦しむ人たちがわたしの周りにも少なからずいます。手術をしてよかったのか、悪かったのか、いずれにしても「切る」という体にはあってはならない、想定外のことをするのですから、体にもともと備わった防御反応、免疫反応が、あらぬ方向に、予期せぬ方向に暴走することは十分ありうることです。

 それにしても、人は「痛み」にだけは耐えられない。「痛み」は、特に、原因不明の痛みは恐怖に転じること容易である。

 さて、本日は、竹の会にも、新しく都立日比谷や西をめざす新中1のみなさんが、定数だけ集まりましたので、都立戸山になるのか、日比谷・西になるのか、その一線を画するちがいは何か、と言ったことについて、一つ二つ話してみたいと思います。

 その前に一つ。竹の会では、1学年最大5人までを定数としています。去年は2月の募集で、新小4、新小5の入会がほとんどなく、結局小6の定数超過を認めることになりました。一学年が定数を超えるのは極力避けたい、今年はその意思が強くはたらいていると思います。今年の受検のように、小5から逸材を育てて小6で仕上げるという形がとれない年は、しかたないですね。じっくり小3、小4から逸材が現れるのを待つしかないでしょ。竹の会のような小塾にはそういうこともあるということです。平成21年のように事実上受検者0ということもありましたから。

 今は、都立日比谷、西、戸山をめざす、次の世代、つまり日比谷・西第2期生、つまり新小6の募集にこれから全力で呼びかけていきたいと思っています。定数は5名までです。

 都立日比谷・西をめざす新小6を募集中です。

 過去の竹の会には、都立西の合格者が2名います。平成13年と平成20年です。平成20年は、独自問題時代です。勉強強豪校都立西に合格する人は普通の人ではありません。

 都立戸山と都立西、日比谷を分けるものは何か。

 日比谷、西の問題は、戸山の問題を確実に超えている、これは実際に過去問を解いてきたわたしの実感です。英語の長文はあきらかに戸山より難しい。そして数学にしてもやはり戸山より難しい。まず、時間が足りなくなる、そういう難しさである。ちなみに、日比谷、西の合格者には、早慶高校合格者が多い。

 単純に東大合格者数、早慶合格者数を比べてみても、生徒の質の差は歴然としている。

 ◎日比谷 東大53(27) 京大9(8) 一橋17

 ◎西 東大32(17) 京大15(5) 一橋13

 ◎戸山 東大7(2) 京大4(1) 一橋7

 ※かっこは現役

 さて、そこで都立日比谷、西に合格する人の像というものはどんなものか、ということである。

 それは、類い稀なる「集中力」に象徴的である。勉強することが「あたりまえ」というところでは問題の生じる余地がない。勉強しない、勉強するかどうかのレベルのバカ生徒とはちがうということである。どうでもいいことで悩まない。時間を「潰す」ということに敏感である。この辺が「戸山」とは微妙にちがう。戸山だと若干「甘い」判断をする傾向がある。中1、中2の時期に、勉強は多少犠牲にしても家族旅行を優先するのは戸山だ。日比谷、西に行くほどの生徒は、盆も正月も勉強という価値からはあまりにも低いところにあるけれど、戸山に行く生徒はその辺が寛容である。そこのところは親の態度も同じである。

 ブレない生徒が成功する。それは小6のときにおいてすでにそうである。竹の会で都立西に合格した2人は、いずれも竹の会に小6の4月に入会した。13年合格者は最初から高校受験目的である。20年合格者は、学芸大附属を受検したものの、最初から都立西ねらいであった。いずれも無駄なお喋りは一切しない、いったん勉強を始めると最後まで黙々とただひたすら言われたことをやった、考えた。この集中力がまず普通の、凡人生徒とちがう。課された課題は、必ずやり遂げて、やりあげて出した。その実行力は群を抜いている。漢検2級を13年合格者は中2の1学期に、20年合格者は中3の1学期に取っている。中3の2学期になると漢検の勉強をする時間がなくなるので注意することだ。英検は中2で準2級。

 「勉強しない」なら、もはや「ない」。バカなことにとらわれるよりも実行することである。趣味なんか楽しみたいのならもう日比谷、西はあきらめることである。今指示されている竹の会の課題、目標を実行する、そしてできるだけ早く、高校入試問題と対面することのできる立ち位置にたどり着くことである。

 世の中には、まともな判断もできないバカが多い。東大生の家庭教師に習えば成績がよくなる、日比谷に合格できると本当に信じているバカ親子がいる。日比谷というのはね、まず天才しか入れないのです。そう考えておいた方がちょうどいい。その上で凡人には及びもつかない努力をする人たちです。世間では、子どもを東大に合格させた親とか、東大に合格した本人が、ノウハウ本を出して、一儲けしようと考えたのでしょう、やたらそういう本ばかりが出て、これにバカテレビ局がB層向けの軽いのりではやし立てる。まずただのバカが、天才の方法を真似して成功するなんてことはない。そんなこともわからないからバカ親と言われるんですよ。できない子の親というのは、自分の子が頭が悪いなんて認めたくもない、それで自分の子ができないのは、やりかたがわからない、方法がまずい、と本気で信じている。だからすぐそういう本に飛びつく。それでどこそこの塾の先生は教え方がうまいとかへたとか、へただからうちの子はわからないとか、方法さえ教えてやればできる子ですとか、ちょっと待てよ、それなら自分の子に魔法でもかけてくれる塾でも探すしかないでしょ。たいていの塾の先生というのは、そういう親に阿ることになっている。

 エナとか、栄光ゼミナールとか、四谷大塚、日能研などの大手には何千人の生徒が集まるわけですね。エナなんかあちこちに教室を展開して、3000人近く集めてるのかな。これだけ大手が大量の生徒を集めると、大手に所属するだけのバカ生徒が量産されることは間違いない。1年間通っても、最初と何も変わっていないという生徒ばかりだ。計算はやりかたは知っている、やったことはある、それで「わかった」ことにしている。割合も「やったことはある」問題だ、で終わり。それで「割合は理解したことになっている」。1年も2年もそういうことに気がつかない親も親だ。小学生が割合を本当に「わかった」と言えるには、執拗に問題を解かせて、理解の程度を、確かめながら、検査指導しなければだめでしょ。「わかったことにした」だけの中身の空っぽの大手のバカ小学生なんか恐くもなんともない。竹の会では基礎しかやっていない子が受かるのだから、どうしょうもない。竹の会の言う基礎は世間の大手好きの親が考えてるほど半端なものではない。毎回毎回計算をチェックし、ありとあらゆる確度から割合の理解を試し、1年以上鍛え抜く、そういう手をかけた指導の結果、基礎があるとかないとか言っているのである。その辺のバカ塾のように基礎ができていないから、基礎的なテキストで復習しましょう、とか脳天気なことを言っているのではない。

 判断について

 勉強するときは、判断しますよね。教科書を読むときも判断する。内容をまとめようとするときだって判断する。このときに、抽象的なことは、具体的なものに言いかえられる、具体的なことは抽象的に言いかえてまとめられる、ということは、法則として知っておかねばなりません。

 ここでは現代文、英文などを読むときの、抽象化ということに練達することが、判断を論理的にし、客観化することにつながるということを考えなければりません。

 前に「分かる」ということは、「分ける」ことだ、ということを述べたことがありました。まあ、「分ける」というのは、区別することが前提にある。区別するためには、差異が分からなければだめです。つまり、わたしたちは、常に、対象のちがいの判断を迫られていると言えます。差異がわからないから「分からない」のです。具体的なレベルではちがいがわかっても、それを抽象化して言えるか、ということです。

 ひとつのヒントを言えば、まず、「共通項」を見つけろ、ということです。数学では、因数分解というのがありまして、まず最初に、共通項を探せ、などと申しますけど、文章を読むときも、日常生活の判断過程においても、わたしたちは、具体的な、つまり未整理の状況のままに判断をするのではなくて、その具体的な状況の中から、対象を整理して、共通項を見つけることです。この共通項こそ抽象化にほかならないということです。

 算数の割合がなかなか理解できない子というのが、いますけど、問題の表現が変わるともうパニックに陥る、思考停止してしまうわけです。食塩水200g中の食塩20gという表現と、男子200人のうちのメガネをかけた人20人というのが、全く違って見えるのです。事象から共通項を取り出す、そういう能力こそが求められている、いやそれが知能の正体です。頭のいい人というのは、この共通項の抽出がうまい、とにかくうまいわけです。頭の悪い人がすべて異なって見えるものが、頭のいい人には単一のこと、シンプルなことにしか見えないわけです。

 これは何かを覚える、暗記するというときにも、歴然とした差になって表れます。頭の悪い人は、リトマス試験紙のアルカリ性と酸性のちがいをそれぞれ覚えようとします。頭のいい人は酸性だけ、つまりどちらか一方だけ覚えて、あとは反対と理解します。だから頭の悪い人はどちらがどちらかわからなくなる。似たようなものを覚えるときは、共通するものをまず暗記の対象から外し、例外とされるものを覚える、そしてなぜ例外なのかをまとめるのです。高裁の裁判官の定年は65歳ですが、最高裁は70歳とされています。このとき、共通項は65歳です。それではなぜ最高裁だけ5歳多いのか。それは最高裁の判事になれる人が、学者とか、弁護士とか、裁判官をもうかなり経験した人、つまり、じいさん、ばあさんがなるからです。勉強のこつというものがあるとしたら、抽象化、つまりは、共通項の法則を使いこなすことです。

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 左 九段合格の子にもらった京都土産

 右 昨日の朝見つけた花

 

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