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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立戸山に受かる法/部活で墓穴を掘る/独自問題を極める/中学ベルトコンベア論/人生は勉強してなんぼ

2016.05.11

 おはようございます。本日は渋谷Aの指導日です。天気は概ね曇り、15時ごろ雨と出ております。渋谷Aには、最近小4が入室しまして、いろいろと指導法を慎重に模索しております。これまで小数については、日能研のテキストを使用してさらりとマスターさせてきましたが、入会試験の時に、「1.5の半分は0.75ですよね」と言ったら、「まだ習ってません」と返ってきたことがいつまでも頭に残った。それですぐに「小数入門」というのを起こした。書き始めてみると、いろいろと「これは理解できるのかな」という概念が出てくる。そのたびに「どう説明しようか」と悩みながら、とにかく第1回目の指導日に合わせて、「小数入門1」を急ぎ仕上げた。なにか文献はと、アマゾンで探して、絶版となった本を見つけて取り寄せた。そのせいか、このところ「定義」という言葉に敏感になってきた。かつて、平成15年ごろだったと思う。都立西高校の3年生が、竹の会に通っていたのは。渋谷区の西原小6年の4月からいる子である。6年のときは、「東京工大に行きたい」とはっきりと言っていましたが、西高3年生のとき、はっきりと「東大志望」になっていました。かれは、結局一浪したのですが、実は現役のとき早稲田の理工には受かっていた。一浪のときの3大模試すべてで全国順位二十番台をとり、名前をのせた。その彼が、高校3年生のときの話しである。あのとき、竹の会で使っていたのは、「大学への数学」の増刊の「スタンダード編」だったが、彼は一問一問解き進めていったのだけれども、わからない問題を毎回数問持ってくる。それで質問してくるわけです。これは大変だった。なぜかというと、ひとつは、高校受験の子たちが、またいろいろ質問してくるわけです。さらに、わたしは、もともと九州大学の法学部ですから、入試では、「数Ⅰ」と「数ⅡB」までしかやってない。「数ⅢC」というのは、未知の領域でした。ただ理系の数学は、塾を始めてから独学で勉強はしていました。ただ東大などの理系の数学について、質問が毎回ある状況などは想定していなかった。それで質問のたびに問題を読むのですが、正直考えこんだ。30分、いや1時間以上思考に沈む。指導中ですから思考に没頭するというのも実は難しい。それでなんとか解決の糸口を見つける。それはいつも概念の定義から、本来定義からすれば、・・・こうなる、という仮説を積んでいく、そういうところから、ほとんど偶然のように見つかった。かれには、解決の糸口を示すだけでもう説明はいらなかった。そういうことを彼が西高の間、ずっとやってきた。それで東大の理系の数学の問題を見ても、以前のようにアレルギーはなくなったのかなと思う。あのときの経験はその後わたしにずっと「数学は定義だな」というイメージとなって焼きついていた。そういうこともあって、「定義」という言葉には随分と敏感なのかもしれない。

 それで今度は小数の話しに戻るのだけれども、「小数の定義」というものを掘り下げていくうちに、今度は、小数と分数の違い、そういうところから、小数から割合の定義を説明できないのか、そういうことを考えるようになった。それで例によって走り書きのメモをいつもとって、定義をいつもあれこれと考えてはいじっている、今はそういう日が多い。

 ところで、竹の会では、27年、28年と連続して都立戸山高校に合格者を出している。それぞれ小5の2月、小4の6月だったか、竹の会にやってきた、受検の子たちだった。それぞれ両国、桜修館を落ちた。模試で一度も成績を残せなかったが、二人とも知能は高く、竹の会で基本はできていた。そういうことが、中学生になって効いてくる。つまり、都立戸山ほどの高校に受かるには、すでにして小学のときに、基本力ができていなければならない。いやそれ以上に、勉強に向かう姿勢、習慣、そういうものがしっかりと根付いていなければならない。

 ところが、昨今のバカ親はこれに逆行することばかりをやっているわけである。いちばん基本をつけてやらなければいけないときに、塾なしですます、あるいは、「大手を信用してたのに」というほど大手を信頼しきって子どもを大手に預けてノホホンとしている。大手といっても中学受験の大手、つまり進学塾と都立中受検の大手とは区別してかからねばならない。後者は、易しいテキストを使って、「わかる」、「できる」を作為している、とわたしには見える。毎週確認テストみたいなものをやるようであるが、「みんなできる」ように調整されている。バカ親たちはそれで安心する。バカ親を騙すにはこれでいい。勉強で「わからない」と悩まなければ能力など向上することは「ない」のはだれが考えてもわかるだろうに、このバカ親たちはそれさえも気がつかないのである。そもそも計算もそこそこ、割合も単元のひとつとして通過儀礼のように済ませて、それで適性類似問題を与えられて、親は、「これが対策だ」などと得心しているのである。こういうおめでたい人たちが、竹の会に見向きもしないのだとしたら、そういう親はこちらから願い下げである。竹の会では、小4の2月に入会した子なら、1年間は割合の問題ばかりを解いている。割合という概念をいろいろな問題を通して学ばせている。日々「わからない」と考えるばかりである。計算は計算の神となるまで練習を欠かさない。そういうふうにして育てた子たちが、どれだけ強いか、そういうバカ親たちにはわかるまい。去年の10月だったか、竹の会の小6の一人がたまたまエナの模試を受けた。そしたら1500人ほどの中の12番だたったか、2500人だと40番台だった、そんな成績をとったことがある。思考力を鍛える、練り上げる、というのは、そういうことなのである。最大の適性対策は、思考力をつくる、これである。

 都立戸山高校に合格する方法、これは、まず、小学4、5年の間に、勉強の素養を作り上げることにつきる。知能の高い子なら、小6の4月からでもいい。竹の会の平成13年西合格者、平成20年の西合格者はいずれも小6の4月指導開始である。勉強の素養とは何か。まず、計算力である。計算は神の領域に達することである。何十億という統計数字を割り算して、小数第4位で四捨五入して、たとえば、62.4%のような数を神的な正確さで計算できることを到達点とする。大手のバカ小学生にこれができるか。次に、割合という概念を徹底して理解しきることである。それは裏から言えば、思考力をつける、ということにほかならない。そしてこれがもっとも大切なことなのであるが、その思考過程を通して、勉強のスタンス、習慣というものを自己内に確立すること、これである。

 大手に2年も通って、入試に落ちて、これから中学生という子どもたちには何も期待できない。なぜなら、勉強の素養が欠落しているからである。計算は「できる」と思っているだけで、全くできない。割合はまるでわかってない、そういう子たちばかりである。ましてや思考の欠片もない。こういう風に自分の子を仕上げて、さてこれから中学というベルトコンベアにのる、そういうことになるわけである。

 中学ベルトコンベア・システムは無事そういう親子を低偏差値私立高校へと送り出してくれることでしょう。このベルトコンベアには重要な附属システムがついております。部活というこの装置は、思考力のない、勉強のスタンスのない、勉強の習慣のない子たちをベルトコンベアからはみ出さないように固定する機能があるのです。そういう子たちは、みな大手塾に入り大手の経営を支援しますし、近所の個人塾などに通って、親たちの「まだ都立に行ける」などという笑止な夢をつないでくれる、もちろん見せかけですけど、そういうはたらきを果たしてくれることでしょう。

 自分の子がどれだけ多才で、才能に溢れていると思っているのでしょうか。親自身がそれほどに天才だったとでも言うのでしょうか。子どもたちは一人で何種類もの習い事、稽古事、スポーツなどに勤しむ、そこだけは親は厳しく支配しているようです。小学生の時期というのは、親がもっとも支配しやすい時期なのです。だから親色に染めることができる。だからこそこの時期にいちばん染めなければならないのは、勉強習慣です。いいですか。高校生になって、大学生になって、勉強する、自分で判断する、将来の道を選ぶ、そういうことを自分かぎりの判断でできるようになっている、それこそが一番大切なんです。将来、何で食っていくのか、これです。そのときに、小学時代に親色の習い事、稽古事、スポーツ、たいていはもう止めてしまったそういうものがなんぼのものなのか、ということなのです。勉強という生活習慣で培った判断力、そこから自分の未来を見つけていく、そういうことなんです。人生は勉強してなんぼなんです。

 最後になりましたが、都立戸山にしても、西にしても、日比谷にしても、攻め口はある、それこそが少なくとも塾、少なくとも専門家と言うことを掲げる者のやるべきことです。独自問題数学も平成14年あたりから蓄積されてきて、今は資料に事欠かない。英語だって、日比谷独特の、西独特の英語というのがある。私立難関のように学習指導要領の枠を無視して難問を出すことができない都立高校には、独特の難問というものが作られてきた。そういう問題に即した指導、対策というものは当然ある。もっとも効率よく合格レベルに達すること、これが塾の仕事であろと思っている。だからそのための努力を惜しんだら塾としては終わっている。だから既製のお仕着せのテキストを使ってやる塾は信用できない。かつて竹の会に当日電話してきて親子連れでやってきて、わたしに「先生の独善的な意見についてどう思われますか」と質問した父親がいたけれど、たいてい他人に独善を言い募る人間は実は自分が独善的な人間なのである。ただわたしの考えが独善的と非難されるとしても、わたしの主張は、根拠なしに言っているわけではない。というか、塾というのは、常に、結果で証明する、ということを不断に繰り返している。独りよがりな、客観性のない指導というものは通用しないしくみになっている。竹の会に通って「できるようにならない」というのであれば、親はいつでも止めることができる。塾が独善に陥ったらたちまち潰れる。常に、客観的な証拠で検証されながら、それで初めて一歩前へ進める。それが塾なのだということである。この父親には塾というものが、常に、「試されている」存在なのだということがわかっていなかった。

 非難されるべきは、世の塾の工夫も何もない、お仕着せのテキスト、お仕着せの授業、そしてそういうものに安心する脳天気な親の精神構造ではないか。わたしを独善的と非難する前に、もっと疑問をぶっつけなければならないものがあるでしょ、ということである。わたしがいちばん危惧しているのは、そういう親のおかげで世の中に勉強というものをしっかりと教えられてこなかった小学生が大量に溢れ、それがそのまま中学生になっていくことである。そういう中学生を教える塾には商売繁盛と言いながらお気の毒としか言いようがない。バカな親の、自ら為した不始末は棚に上げての苦情に阿りながら、バカ中学生の機嫌をとるなどわたしにはとうていできそうにもない。

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