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都立戸山基準の確立/小石川中等難化は想定の内/縦横無尽に力を振るわせてくれる親の希有なこと

2017.01.25

 おはようございます。本日も超低温ながら澄み切った青空と熱と光を惜しみなく放ち続ける太陽に恵まれました。届出によればインフルエンザに罹った子が出たようでこの低温がウィルスという人類最古の天敵を活気づけていることを口惜しく思わない日はありません。現代医学はというか薬学といったほうがいいのか、抗生物質という細菌にのみ有効な特効薬を開発しましたが、これは両刃の剣であることはだれでも知っていることですが、しかし、人間というのは当面の痛み、苦痛を最大評価し、抗生剤の副作用というものを過小評価する、都合のいい生き物です。ところが、どうも人間の体の中もいや皮膚でさえも、ありとあらゆる微生物が最古の時代から棲みついてきたということ、そしてその微生物によって人間が生かされている、生かされてきたということがしだいにわかってきた。抗生剤をのめば腸内の菌が全部死滅してしまうことは、その後の腸の不調を経験すればすぐわかることですが、医者はここでも整腸剤や胃薬を投与することで対症療法に満足し涼しい顔をしてきたわけです。ところが人間を存在たらしめているものが実は微生物の力であったということがわかってくると、抗生剤をのむということのリスクがとても計り知れないものになってくる。もし抗生剤をのむことでそうした体内のあらゆるところ、特に、臓器の中で人間、いや医学の想像をはるかに超えたはたらき、機能を担っているとしたら、そうした微生物が死滅してしまうことのリスクは全くの想定外であったことにならないか。昨今の抗がん剤の多用、抗生剤の多用がさまざまな病変をもたらしたと言えないか。これからそうした微生物のメカニズムというものが、微々たるものでも明らかになれば、それは現代の医師不在の投薬医療、製薬マフィアの闇支配の無用性、非合理性を露わにすることにならないか、たとえその一端でも人々がその愚に気づくきっかけになればいいと思います。

 想定外と言えば、それは政府が福島の事故のときに何度も口にした言葉です。想定外とは、怠惰で不作為を貪る政府に想定できないことと言う意味でした。福島の事故のとき、緊急用の電源装置のコードがコンセントに合わないというので、「だれかコンビニに行ってこい」などという信じられない言葉が飛び交っていましたが、こいつらにとっては、これも想定外だったわけです。想定外とは不作為人間、怠惰な人間の言い訳でしかないのです。習い事、稽古事に時間の半分は使っても「受かる」と見込んでいるから続けるのでしょうが、落ちればそれは想定外ということになるのでしょうか。大手に2年間なり通った成果はどうでしょうか。まあ大半の受検生は落ちるわけですから、大手にいく人がほとんどなら、大手に行ってもほとんど落ちる論理なのですが、大手は「何名受かった」とそこばかりを喧伝するわけです。しかし、現実には、8倍とかの倍率からはほとんどが落ちることになっている。受かったとそのことばかりを言い立てるのは兼好法師も苦笑するほかないであろう。古今人の浅ましきは変わるところがない。落ちた数を正直に出させたらいったいどういうことになるのか。大手が天文学的な数を出せることだけは間違いない。広告してバカを含めて集めるだけ集めて結果大量に落ちている、それはわかりきっているのに、世の親たちは、例の抗生物質と同じで、懲りることはない。

 こうして竹の会を信頼してきてくださった親御さんには感謝の気持ちでいっぱいですが、ただ時期的に遅れて竹の会に来たというみなさんにはどうも竹の会にきていただいてもなかなか成果をもってお応えすることができなかったということではないかと思っています。このブログでも幾度となく訴えてきましたが、やはり小4期、それも少なくとも8月前後までに竹の会に来ていただくことが、かなり重要なのではないか、と今は確信に近い信念にまでなっています。さらにもともとのお子さんの能力というものもあります。竹の会の入会試験はせっかく指導しても成果につながらないということを回避する趣旨であり、遠くから通われているのに月謝を払う意味がないのでは詐欺に等しい。わたしは少なくともそういうことが明らかなのにズルズルと不作為を決め込んで月謝を払わせるということはできないのです。ですからわたしから言う退塾というのはそうしたことでお金を無駄にしないでくださいという配慮というか、良心みたいなものが働いている。

 能力といってもいろいろです。字なんかとてもきれいで素晴らしいというのはこれはかなりの能力です。几帳面でいい加減にはできないという性格もかなり貴重な能力です。やりとげる、途中であきらめないという性格なんかも能力です。丁寧に嫌がらずにこつこつやるというのも優れた能力と思います。ですからこうした才能は総合的に見てやらなければならない。ただ指導が進められないという事態に直面しない限りはです。もしあるステップの勉強が次の礎にならない、少しも糧にならない、次も、次も、そのたびに説明してあげなければ進められない、としたら、これは竹の会でやっていくのは無理です。だからそこのところはかなりシビアに診ます。「合格はんこ」を積み重ねていけないというのは、指導がうまく進められていないということの重要な徴表です。

 「教えたことだけできる」という子がいます。実は、学校の優等生、特に、女子の優等生に多いようです。素直で、親はもちろん学校の先生の言うこともよく聞く子です。宿題もきちんとやります。家庭学習も親のいう通りにこなします。要するに、親からも先生からも「いい子」と評価される子です。ですから、通知表も悪くない。優等生と見られています。ところが、この「教えたとだけできる」子では、だめなんです。「教えられないこと」はできない子では伸びていかない、「合格はんこ」を積み重ねながら、進めていけないのです。

 竹の会の、わたしのレジュメは、ひとつのことを学んだら、それが糧となり、次の課題レジュメにも考えるということで乗り切れるということが仕組まれています。専門的には転移思考というのですが、似た論理を他の事実に転移させて使うという能力です。似たどころか、全く同じ論理なのに数値が違ったり、表現がやや変えてあったりしただけでダメという子がいますが、こういう子の指導は基本的には無理なんです。

 ところで「教えたことができない」という子は最初から指導の対象とはなりません。これには、実は、「教えたことだけできる」という層の底辺の子たちが境界を作っています。わたしが指導できないと判断するのは、進捗という概念が「ない」、いちいち問題が変われば、説明が必要、という子についてです。これは思考形成そのものができないということです。竹の会の入会試験がそういう子を排除する目的で作られているのはもちろんです。「問題を読んで理解し、その理解したことを適用できるか」、これが問われています。この能力は、これから竹の会で指導を進めていく上で是非とも必要とされる能力です。入会試験で不合格になった子というのは往々にしてこの能力に欠けることが多いのです。ただ小3とか、小4の早期では、まだ幼い、未熟ということで、その能力が見えてこない、そういうことはあります。だからそういう能力のある子を見落とすということもある。それで多少甘めに判断して入会許可を出すこともあります。しかし、小3だと甘めの判断が裏目に出ることもあるわけです。逆に、その時には見えなかった能力が芽生えてきて開花していくということもよくあります。これが小5とか、小6と年長になっていくにしたがって、そういう可能性というものは減っていきます。

 竹の会の入会許可基準が厳しいという方もいますが、小4早期では、かなり斟酌して「仮合格」という仮判断の道も設けております。ただ高校受験だと従来の「入会試験Ⅰ」では、小6でもA合格以上でないと厳しいと思います。ただ現在は難易度の高い「入会試験Ⅲ」が使われますので、小5、小6の入会は事実上困難です。この難易度の高い試験を突破できるほどの子なら、合格も夢ではないという判断です。

 「教えたことしかではない」子は伸びません。「教えたことから一を聞いて十を知る」、そういう子が伸びるのです。

 また子どもたちの作文を診ていますと、限界というものを感じます。幼すぎるのです。恵まれすぎた環境、なんでも手に入る環境にいる子たちに、作文を書けというのがそもそも無理な相談なのかもしれません。作文というのは、満たされた子には書けないものです。悩みとか、苦しんだ経験とかが人間として成長させて、一回りも二回りも大きな人間にする、そういう子がいい作文を書くわけです。ですから、今まじめに作文に取り組んでいる子についても、やはり幼い殻から脱皮すること、もっと人生の苦しみというものを知ること、その意味では、他人の苦しみを小説を読んで擬似体験する、そうしたことも必要なのかもしれません。とにかく今のような甘ったるい、幼さでは、作文の壁は破れないでしょ。

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