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都立戸山高校合格で思うこと

2016.03.06

 おはようございます。現在7時半少し、気温10℃です。今日は「暖」の日のようです。この時期は寒と暖の鬩ぎ合い頻繁にて、気がつけば暖の勝ち、今年もまた悲喜こもごもの桜の季節になりますね。去年の桜の季節にいったい何人の小学生が受検の覚悟をしていたか、といえばかなりに消極です。去年の3月2日も今年のように冷たい朝でした。去年行って9時前に「並ぶ」ということを学習していましたので今年は迷わず並びました。戸山高校に着いたのは8時50分頃でしたが、もう100人ほどが並んでいました。ほとんど生徒の群れでちらほら親らしき人が混じっていました。朝早くからこうして発表を見に来るなんて「偉いな」、「よほど自信があるのかな」「賢そうな顔してるな」とか勝手に想像、すぐ10分が経っていよいよ許可が出て一斉に並んでいた人の群れが動き出す。掲示板の前に来る、前にいる人が邪魔で見えにくい、この探すという一瞬の何分の一秒、思考は止まり、頭は真っ白、目当ての番号に近い番号の列、すぐ隣の列の下の方、そう思考操縦しながら、ひたすら探す、「あった」、一瞬鼓動していた心臓が弛む、もう一度確かめる、それで肩の力が抜ける、頭の中で「文京は」と過ぎる。i-phoneを見ると不在着信、慌てて折り返す、出ない、もう一度折り返す、出た、今まで塾で聞いたことのない、跳ね返るような声が響く、「先生、合格しました」、全身の力が抜けていくのがわかる、もうこの体の負担に耐えられないかもしれない、昨日はいろいろ考えていたらとうとうほとんど眠れなかった、とにかくよかった、これから文京高校に向かう、しかし、足取りは軽かった。

 戸山高校の男子受検倍率1.86倍、133人の定員に248人の秀才たちが志願した。倍率は1.86倍だが、内申の高い優等生たちの戦い、実力の拮抗した子たちの戦いになる。

 わたしの「読み」どおりの点数を取り、本番を終わらせることができるか、直後の自己採点の結果を待つまでの時間も精神的な負担はかなりのものである。報告された自己採点の結果をZ会のデータと照らし合わせる。去年合格した男子生徒の得点と比べる。過去のVもぎの独自校対策もぎのデータと比べる、そうして自己採点の結果どおりなら合格か、というところまで「読む」。ただ、自己採点がどこまで正確か、ここでまた悩む、多くの受験生の自己採点は「甘く」なりがちだから、そのまま鵜呑みにできないところがある。去年の生徒も後でわかった得点より低かった。ただ実際の合格数は定員より多くなる。事実今年も141人が合格している。

 本番を終わった2月24日の夜は、こうしてさまざまな思いを引き摺りながら過ぎて逝く。発表までの中6日のなんと長いことか、心身も疲れ果てて1日の夜はほとんど眠れないままにまだ明けきれぬ朝を迎える、とうとうその日の朝がきた。

 戸山の子は、桜修館に落ち、文京の子も、桜修館に落ちた。あの当時は竹の会は中学生は「とらない」方針だったけど、熱意に負けて「みる」ことになった。今の新中1のように、小6の3月には、単語を覚えて、正負の数を始めて、というところから始めた。定期試験のたびに成長していった。たくましくなっていった。学校の授業と関係なく進められる竹の会のレジュメ指導に四苦八苦しただろうか。文京の子はどうしても学校の授業と歩調が同じになってしまう、戸山の子は先へ進めたけれど思春期特有の扱いづらさが日増しに顕著になってきた。わたしには長い戦いの日々であった。悔いの残るのは、一度として、英文原書の訳に成功していないことか。3年間で3度の竹の会夏期指導、冬期指導を経験した子たち、ともに歩み、それぞれに苦しみもあったことだろう。

 わたしは、いつも「読んで」きた。「読む」というのは、その子の力を「読む」ことである。指導というのは、正負の数なら正負の数でレジュメを終わらせた、その後に、その子の理解の程度を「読む」という意味である。割合を理解していないという読み筋は少なくとも小学時代を竹の会で過ごしたのなら「ありえない」読み筋であるが、得てして文字の世界に入ると突然変調する子もいるけれど、小学の頃鍛えたことがプラスにはたらくのが普通ではある。

 「読む」というのは、常に指導者の思考にはついてまわる。その子が理科で何点とるか、社会で何点とるか、数学で何点とるか、そういうことをすべて「読み切る」のがわたしの日々の仕事である。竹の会のレジュメ指導というのは、いちいちレジュメでその子の真の理解の程度を「読む」ところに意義があるのだと思う。

 それにしても、大手に子どもを通わせている、それで安心している親のアホぶりにはあきれるしかない。自分の子が1年経ってどうなっているか、知るまで大手の言われるままにカネを出し、任せている、つまり、放置しているのだから、あきれるというのである。 計算もろくにできない、ただ本人はできると思い込んでいるだけ、割合もまるでわかってない、ただ本人はわかっていると思っているだけ、そういう子たちを量産する大手のシステムほど恐ろしいものはない。

 大手の子たちは、集団授業で過ごすうちに、自然と「理解したふり」をする性を身につけてしまう。自分の学力よりもはるかにレベルが上の教材をただ繰り返す、それでその問題集のその問題だけは解けるようになっている、それをもって「理解した」と言っているにすぎないのに、親も子もそのことに気がつかない。少し捻れば全く対応できないバカだということに気がつかないのが、アホだと言っているのです。

 高校入試は長いようで短い。3年なんてあっという間だ。今年中1なら、来年はもう中2、中2の夏前には中2の履修事項を終わらせて、夏から中3の履修事項を始める、年を越せばもう中3である。あっという間である。

 中1、中2のみなさんは、どうかわたしが安心して掲示板の前に立てるように、今この時から勉強するという覚悟を定めて、わたしの指示に迷うことなく取り組んでください。勉強しない、勉強以外のことに時間を費やす言い訳など聞きたくもありません。

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