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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷、西、そして戸山への道 勉強量で決まる  現代文と英語文など

2016.03.28

 おはようございます。本日は雨となりました。昨日は桜ツアーが空振りでがっくりきましたが、自然のタイミングが人間の都合に合うはずもなく、いやこのときほど「判断」の難しさを思い知ったことはありません。より遅い日を選ぶ選択肢もあったのですが、天気予報の雨というのに判断が狂いました。結局天気予報はいつものように大外れでした。マーフィーの法則というのがありますが、わたしの判断はたいていマーフィーの予測どおりになるようで、こうなると、予め何も考えない方がいいのではないか、と思ってしまいます。しかし、受験のときは、そういうわけにもいかず、細部にわたっていろいろと予測することばかりで予測と判断の地獄から抜けられそうにもありません。いつも自分の判断の根拠の曖昧さに反省することしきりです。3.11の地震のとき津波を自分の判断で予測できた人がどれだけいたでしょうか。そうでなくてもわたしたちは日々いろいろな分岐点となる判断を求められています。わたしたちは、日々なにかしら判断をすることを強いられている、それが人生なのだ、ということです。

 いつも判断を誤り、後悔することも多い。高校入試では、絶対に誤ることの許されない判断を求められる。ぎりぎりまで迷う。生徒の志望をそのまま認めていいのか、最後まで判断を迫られる。これが小石川受検となると、「小石川を受けたい」と言えば落ちるかもしれないけど思い通りに受けていただくしかないわけです。今度だって、小石川を避けて両国という判断だってあったはずですが、小学生の場合は、親が、子が、小石川と言えばそれにしたがうしかない。どこを受けるかはすべて親の判断、専権事項である。合格の可能性はあっても、落ちる可能性もかなりにある、そういう状況でも、「受ける」と言うならわたしにそれを止める権限はない。

 高校入試はもう一度落ちたら取り返しのつかない選択になる。だから親も子も落ちる危険を考える。自分の志望だけで決められない。都立駒場にして落ちたら、行きたくもない私立に行くことになる、こんなことなら一つ下げて三田にしておけば、ということに必ずなる。合否の判断、しかも生徒の志望をできるだけ尊重しての合否の見切りというのは究極の判断にならざるを得ない。この判断をなぜか竹の会ではわたしがやってきた。学校の先生の判断か、塾の先生の判断か、迷うところであるが、学校の先生は受かると言ったのに落ちた、という話しがネットではよく見かける。竹の会では親御さんはなぜかわたしに判断を求めてきます。だからわたしもぎりぎりのところで、紙一重の判断をすることになる。失敗は許されない判断、これはわたしには相当なストレスになるようです。都立の発表のとき、番号を見つけてうれしいというより、とにかく救われたという気持ちになります。全身から力が抜けていくのがわかります。発表までの眠れない夜を過ごすのは正直体力は限界なのかなと思います。

 公立中高一貫校で合格をとる、というのは難しい。小学生相手というのがまず難しい理由である。まだ幼い。勉強のなんたるかもわからない。まだ遊び盛りである。勉強するということの意義もわかっていない。小学生に7時間の家庭学習を強いるというのはもともと無理な話である。だから小学生の指導というのは、不確実性に満たされている。7時間、10時間をやれるという子しか受かることはできない。しかし、ほとんどの小学生にその力量はない。合格に必要な客観的、物理的勉強時間の確保などできるはずもない。だから白鷗や富士などでは、そういう力量のない子たちの戦いになっていた。だから物理的要件を満たさなくても合格できる学校ならいいけれど小石川はそうではない。そうではなかった。落ちたのは勉強時間の足りなかった子たち、そういうことである。

 さて高校受験ではもはや親の出る幕はない。日比谷、西に合格できるかどうかは、あげて中学3年間で確保できる物理的時間量でまず決まる。わたしは1日最低5時間をやるように指示している。それが実行できる生徒が日比谷、西に受かり、実行できなかった生徒は落ちる、あるいは行けない、ただそれだけのことである。

 勉強量を確保しながら、勉強を一日も休まず「継続」すること、これが都立日比谷への道である。日比谷、西というけれど、あきらかに日比谷が上である。微妙な差かもしれないけれど日比谷が上である。男子なら合格できるのは、130人限りである。東京都のトップクラスの中学生の中から130人だけである。どこそこの中学の学年1番の生徒ばかりが受ける。それでも受からない生徒がいる。それが日比谷受験ということである。「継続」できないものから脱落していく。これは疑いない。わたしの大学の同期で現在裁判官をしているI君のことを思い出す。1日たりとも勉強を休んだことのない、そういう人としてわたしの中に銘記されている。続ける、継続するというのは天才にのみなしえることである。多くの凡人の凡人たる由縁はこれができないところにある。

 さて英語には、5文型というものがありまして、主語S、動詞V、目的語O、補語C、この4つの要素ですべての、あらゆる文章は構成されている、ということがわかっている。だからどんな難解な英文もこの4つの要素に分解することによって、その意味を解読することができることになっている。竹の会で英語を学ぶということは最終的にこの英語5文型を思考の道具として駆使できるかということである。

 ところで最近読んだ本に面白い記述を見つけた。現代文も英語と同じようにアプローチできるとするものだ。ただし、現代文の場合の4つの要素は、主語、述語、修飾語、非修飾語とされる。英語の場合、まず知らない単語の意味、一つの単語でもたくさんの意味がありそのどの意味なのか、そういう壁をふまえての5文型分解であるから、5文型思考は欠かせない。ところが現代文はふだんから使っている日本語である。そもそもの言葉の壁はあっても深刻ではない。ただ現代文をこれらの4つの要素で分解しながら読むということの効用については、これからわたしの研究課題となる。この提唱者が言うには、現代文をこの4つの要素で分解することが、英語5文型による分解に資するということらしい。わたしなりにその仮説を検証してまたみなさんに報告できればと思います。

 そろそろ時間です。ではまた。

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