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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷、西に合格できる塾/小石川、桜修館なら竹の会/小学生には訓練しかない

2016.12.04

 おはようございます。今日はなんとか天気は持ち堪えそうですが、次第に崩れていく予報です。気温は10℃を少し超えたあたりでこのところ推移していますが、子どもたちは毎回だれかが熱を出す、体調を崩すなどの連絡があります。いよいよ師走に入りまして、本日は渋谷Aは最初の指導日になります。12月、1月と受検まで2か月を切りましたが、今年は、去年の子たちがこなしたレジュメの何分の一もこなしきれないままに12月に突入してしまいました。小6前後に竹の会にきた子たちはしかたないとしても、早くからいた子は正直不甲斐ない結果です。竹の会では小6前後に入会させるということは実は不本意なことですけど、席はガラガラでしたから、それもありかと妥協したものの、やはり訓練期間の絶対的不足を痛感するばかりです。

 最低でも小5の一年間を正味で訓練に使えることが、成功の大前提です。小5から訓練を始めれば、少なくとも計算と割合導入だけで3から4か月を使いますから、それだけ正味の訓練期間は減ることになります。わたしが、小4の2月開始と言うのは、最低でもという趣旨です。それ以前に越したことはない。理想は小4の8月前後です。小3では早すぎる。幼くて保育に堕してしまう。小4の8月前後に「入会試験Ⅰ」でA合格をとること、これが理想です。現在竹の会にはこの理想的な条件を満たさない小4,さらには小5もいますけど、これは経過を観察して推移を見守る、少しでも「無理」との懸念があれば、これは正直に親御さんに報告して、いやその前に教育熱心な親御さんは自分の子どものことをよく知っていますから、とにかく決断を迫られるということになる、そういう覚悟は常にしています。

 ですからわたしは子どもたちを指導するというときは、ほんとうにいつも真剣勝負です。そういう子どもたちの行く末というものをいつも考えている、この子はどうなるのか、そういうことが頭から離れない、この子に割合が理解できるのか、いやなんとか割合の基本は理解させなければ、とか、いつも頭を悩ませています。「これがわからない」、いつもそういう子どもたちの反応を見て、一喜一憂しています。子どもたちが、わかりながら前へ進めていく、これが一番の理想なわけですけど、いつも理想通りにはいかない。例えば、小5の4月前後にA合格した子だと玉石混交ということは多分にある。わからないというのが本音である。去年の小6は、小4の4月から来たという子が多かったけれど、実は、入会試験Ⅰは、その前年の小4の10月あたりに受けている、しかもA合格した子たちばかりであった。だからかなり期待を持てたということがある。

 もちろん小5の後半に入会したからといっても成功する子はいました。もともとの天才的な知能が潜在していたという子です。こういう子の能力を掘り起こしていくということはあるわけです。ただこういう天才的な頭脳の持ち主でも訓練をしなければただの子で終わることになるということです。

 さてです。ここのところが重要です。世の多くの親御さんというのが、ここの判断でかなり失敗をしておられる、とわたしは見ています。竹の会に問い合わせをしてくる親御さんには、例えば、荻窪の方であったと思うのですが、もう2年前のことですが、竹の会に関心を示されたのですが、当面は小3?ということもあり距離的に無理と判断されて近くの個人塾に通わせることにしたということがありました。わたしはこの選択の時点ですでにその子の将来はもう決まったと実感しておりました。実はこういう親御さんがかなりいるわけです。中には、竹の会に見学を兼ねて入会試験を受けにこられる方もいます。ただこの見学を兼ねての受検という方はたいてい入会することはありません。入会試験Ⅰでは、A合格をとらなければ、竹の会としても喜んで受け入れるということにはならない、それで特に、気を惹くこともしない。それはともかくとして、やはり世の中の親御さんというのが、小学生をどう教育していくか、ということについて、勘違い、ないし誤解しておられるということは今ではわたしの確信に近いものがあります。

 かつて江戸時代の寺子屋というのは、というか江戸時代の塾というのは、孔子の論語なりをひたすら師に合わせて諳んじる、復誦する、そういうことであったか、と思います。これは紛れもなく訓練です。訓練によって難解な漢文を習得する過程です。書道というのはひたすら書の型を練習する、つまり訓練するでしょ。歌舞伎役者の子はもう2歳とか、3歳あたりから芸の真似事を仕込んでいく。これはもう早くから訓練を始めるということです。そもそも子どもたちに教えるというのは、ほかでもない訓練のことです。子どもたちを集団で授業して教えるという形式は明治の学制あたりから始まったことではないでしょうか。江戸時代には大坂に緒方洪庵の適塾というのがありましたが、あれなんかも実体は訓練に近いもののように推測されます。なにしろ蘭語の原書を不完全な辞書だけを頼りに訳していくなどということをやっていたわけです。これはまさに訓練でしょ。

 小学生というのは、訓練してなんぼです。小学生というこの時期にどれだけ訓練というものをしてきたか、これがすべてです。のんびりバカ講師のためにもならん話しを聞いてる場合じゃないということです。そんな時間があったら、考える、ひたすら考える訓練をしたほうがよっぽどましです。子どもに無駄に時間を潰させる、そういう習慣をつけてはならない。しかし、そういう選択を親はあえてやるわけです。塾に行かないというのもかなりの覚悟がいる。それで何するの? 無駄に時間を潰すだけでしょ。そんな状態で1年、2年と無為に過ごすというのは自分の未来を捨てたに等しいことではないか。大手塾でも近くの個人塾でもいい、それが時間を無駄にしたことにならないか、である。訓練という中身のない塾なんか、行けば必ず後で取り返しのつかないことになっている。いいですか。子どもというのは訓練の対象でしかないのです。とにかく徹底して訓練する、これしかないのです。小学生から野放しにするという親はお話しにならないけれど、だからといって小3あたりから大手の愚にもつかないカリキュラムで型にはめこむ、窮屈な、これしかないというような固定した頭にしてしまうという、親も似たり寄ったりです。

 竹の会を見学しただけで、質問も何もしない親が過去に何人かいましたけど、これで何がわかるのでしょうか。見ただけで竹の会はわかりませんよ。全く突っ込んだ話しもしないままに見学だけという人は最初から腰が引けているのだから見学など意味がない。わたしが見学したいとい親に消極的なのはそういう事情がある。それでついでに入会試験を受けて見るというのも正直本気でないのなら迷惑至極な話しである。これにとる手間暇もバカにならない。

 竹の会というのは、逐一できているかどうか、すなわち、理解の有無を確かめている、確かめながら、進める。できているのか。いないのか、をリアルタイムでチェックしている。できていなければ、そのことがひとつの問題として確実にわたしに影を落とす。あれこれと処方を考えるけれど、どうにもならないこともある。最悪、能力の底かもしれないからである。嫌な予感が脳裏をかすめる。経過観察ということをやる。とにかく観察する。訓練というのは、常に、リアルタイムでチェックをしながら、その訓練の成否を問うものである。わかりかけたら畳みかけるように攻める。一気に進める。一気呵成に仕上げる。こういう緩急自在の機微に満ちた指導こそ訓練を成功させる要になる。

 どうか竹の会を見ただけで判断しないでほしい。わたしは、小数を訓練し、分数を訓練し、逆算を訓練し、割合を訓練しているだけである。訓練の風景を見て何がわかるというのか。訓練は受けてみて初めて理解できるものである。こういう見た目で判断する親が結局子どもを近くの駅前大手に入れて愚にもつかない結果になる。世の中の親はたいていそうである。

 

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