画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷、西は天才、戸山、青山は秀才、新宿、駒場は優等生がゆく/小石川、桜修館は天才、両国、九段は秀才、富士、白鷗は凡才にも道あり/真理は不変

2017.02.05

 おはようございます。本日は午後から雨が降る予報です。傘を忘れないようにしてください。本日は「渋谷A」2月第2回目の指導日です。5℃という低温ですが、普段2℃前後が続いていますので、かえって暖かくさえ感じます。インフルエンザが流行していると聞きますが、竹の会ではそれほどでもありませんが、一人、二人は散発的に出てはおります。子どもの場合は、人の集まる学校で広がる、社会人だと電車とか会社とかいろいろありますが、これに睡眠不足、栄養不良、疲れなどが加わって、免疫力低下したところに低温で元気になったウィルスなどが侵入するということです。最近の報道では、なんと35℃前後でも元気なウィルスが出てきたとか。細菌やウィルスの生命力というか、生存本能というか、とにかく環境に合わせて自分を変えて生き抜くという、何か不変の力がはたらいているとしか思えない強さにはともすれば頽れそうです。どこからそんな力が湧き出てくるのか、なぜにそこまで生命を絶やさないことにこだわるのか。

 もっともウィルスは生命体ではない、という福岡先生の解説がありました。生物なら雌雄に分かれて子孫を残していくはずだというのです。もっとも単純な単細胞生物は細胞分裂することによって殖えていきますが、この細胞分裂による増殖というのは多細胞生物だって変わらない。ところが、ウィルスというのは、雄も雌もない。動物の粘膜に張り付いて自己を複製して増やしていくのです。ただ人間などの喉などの粘膜、あるいは肺の中の粘膜にくっつくには、ウィルスにもともと備わっている突起の形状が粘膜の形状と合わなければダメなのだそうです。超ミクロの世界の話しですから、そういう世界では、くっつけられる側の形状とくっつく側の突起の形状がちょうどコンセントのように合わなければダメというのはわかります。毎年流行するA型などの季節性インフルエンザはすでに突起が人間に合わせて適合しているわけですが、鳥インフルエンザなどのウィルスはまだ人間には適合していない。しかし、いずれやつらは自らを変えていき人間にも適合してくる日が必ずやってくる。このとき例えば日本では最低でも60万人以上の死者が出ると予測されています。

 そもそも人間というのは、こういうウィルスや細菌と闘ってきたのであり、その過程において免疫能力というものを進化させてきたのであろうと思われます。

 真理とは何か、ということは、これはわからない。科学というものがさまざまな、神の所為とされていたものを打ち砕いて、科学的な説明というものをしてきたわけですが、今現代でもまだまだ科学で説明できていない万象は尽きない。これらすべてがいずれ科学で解明できるもので今はただ科学がそこまで追いついていない、ということなのか。それとも科学では説明できない事象というものがもともと存在するのか。神の論理で了解する、あるいは宗教という説明で了解する、そういうことが今現代でも蔓延する由縁です。占いとか、風水とか、新興宗教の奇妙奇天烈なこの世の説明とか、人間というものはいくらでもオカルトに化かされる、本気で信じる。説明されないこと、できないことに不安なのです。ところが、医師や薬の説明などでたらめばかりで、説明好きの人間も容易に騙されることになる。

 真理というものが「ある」と素朴に仮定するところまでは間違ってないと思います。もともと真理なんて「なかった」という結末だったらこれはまたこれで笑えますが、少なくとも、ウィルスの強かさはどこからくるのか、人間という不思議な生命体についてとか、さまざまな地球の営み、そういうものを考えるとき、真理というものを仮定してしまうのは、知識に偏重してきた報いなのか。

 真理はわからないけれど、とてもわからないけれど、そのわからない真理というものを目に見えないものとして仮定したときに真理とはこういう属性を有するのではないか、といった期待をこめた仮定はできそうです。真理は不変なのではないか。不変という属性があるのではないか。そして真理は普遍なのではないか。そうでなければ真理たりえないからです。

 いつかカンフーという中国武術の達人の老人の話を何かの本で読んだことがありますが、名人の境地に達したほどの人は、動きに無駄がない、というのです。これは空手で有名だった大山という人がカンフーの達人の老人と対したときの話しです。無駄がないというのは、ほとんど動きがない。いや動くとしても最小の動き、円運動をしている、というのです。

 職人の技術も名人ほどになると無駄な動きなどない、最短、最小の動きに収斂されている。素人目には動かないように見えても実はあまりにも微細な、高速の動きゆえに静止しているかに見えるということなのか。なにごとにも、どういう世界にも、真理というものが「ある」。

 さて、そこでです。勉強の真理とは何か、考えてみてください。普遍の、かつ不変の真理です。少なくとも勉強しない人間が脱落すること、これは確かです。わたしは、勉強するという不変の意志、そこから決してぶれることのない、類い稀なる「実行力」というものを見てとります。真理からは遠のく、離れる行為、行動をしていないか、よく問いかけてみることです。

 安易に正解を手に入れることは勉強の真理からみてどうなのか。思考という過程を経ていない正解などどれほどの価値があろうか。他人の解説を経て得た正解はどうなのか。習い事や稽古事で週の何回かを費やすことは勉強の真理からはどうなのか。真理から見れば、人間的な都合などどうでもいいことであり、ここにいろいろと正当化できることを持ち込んできても真理は微動もいない。

 真理に即して生きていく、つまり真理がガイドラインになる、これが理想です。もちろん真理が何なのかはわからない。しかし、真理が不変であり、普遍であるということだけは間違いない。これは論理的な結論です。人から騙されるというのは、己がぶれるということです。己が普遍であり、不変であり続けることが真理に即した道を歩んでいることになるのではないか。

 やたらぶれないことです。ひとつの道をただひたすら歩むというのはこのぶれないという点において真理に到達する可能性が強いと言えます。職人の道、技芸の道、そういう道を歩み始めたら、もうぶれないでただひたすら歩み続ける。それしかその道の真理に到達する方法はないと思います。ぶれるというのは真理からは遠のくばかりなのではないか。わたしはそう思います。

ページトップへ