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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷、西への思い/小石川、桜修館との歩み/細やかな喜び

2016.12.06

 ブログを更新するのは、かなり覚悟のいることとなりました。書くほどに血圧が上がる、それが恐くて書けない。朝目覚めると明日返却予定の提出課題について解説と次回課題の印刷をしなければなりません。すべてが準備できるまでに2時間ほどかかりました。これは明日朝早くに起きてまた2時間ほどかけて今度は添削する予定です。今日は、指導レジュメ集の補充もやりました。これは、たとえば、「小学思考の素~割合問題編」なら70pほどですか、まず印刷しまして、それから真ん中を留める。それから背に接着のりを塗ります。それから乾くまで放っておく。忘れた頃乾いたら、電動ホッチキスで留める。これで出来上がりです。一連の作業はもうかなり熟練したものです。それから新しいレジュメを執筆しました。今日は、「コナンの逆算推理」から、さらに進化した逆算の極意をまとめた「魔法の逆算」の執筆に入りました。さらに、一応の目処がついたところで、懸案の「魔法学校の割合教室」の執筆に取りかかりました。小3の子を念頭に語りかけるように割合を説いていきました。毎回講義で語りかける形式になりました。わたしの新しい割合導入レジュメになります。思うのは、指導の極意は、定義にあり、ということですね。定義をどう説くか、これですね。長い間指導というものに携わってきて思うのは、結局指導するというのは、子どもたちにどう定義というものをわからせるか、ということです。自分でもとにかく定義の見直し、再定義というものを暇さえあればやっていますね。

 たとえば、÷という符合ですが、1つのものを割って2つの数にする、分ける、というような定義を考えました。÷という符合がそんなかたちをしていますよね。逆に、×という符合は、2つの数を1つの数にする、そんな定義を考えました。そしたら、逆算がとてもわかりやすくなりました。子どもたちに何かを教える、指導するということは、いつも定義というものをこれしかないという固い概念を前提にしてどうわかりやすく教えるかではなくても、前提とされている定義そのものを再定義する、そういうことが必要なのではないか、と思うのです。わたしが、「魔法学校の割合教室」を思い立ったのも割合という概念をもう一度定義し直してみたいと考えたからです。小3とか、小4早期の子たちにどう理解させるか、これがわたしにまた執筆意欲を起こさせたということかもしれませんが。

 今、ひとりの小3の子の指導に取り組んでいます。小数から始めて、分数まですごい速さで仕込んでいます。分数、小数混合の四則混合演算、おそらく難関私立中レベルかと思いますが、実に正確に計算できるまでになりました。小5や小6もここまで正確には出せないかもしれませんね。この子の指導の次の手順を考える日々です。そこから「コナンの逆算推理」を書きました。これは4年生が超速で逆算をマスターするのに役に立ちました。わたしはさらに概念の定義を突き詰めていき、さらに究極の「魔法の逆算」というアイデアを思いつくにいたりました。次は、割合なんです。小3にもわかる割合、これを考える日々でした。ふと思いついたのです。割合って、魔法なんじゃないかって。そしたらいろんな定義がみな魔法で塗り替えられていった。これなら小3の子にもわかるかな、そういう思いを温めつつ日々構想してきました。今日は一日お休みということもあって、原稿の執筆に取りかかることにしました。正直抱えている原稿はたくさんあるのです。「西、日比谷のための英語」、「西、日比谷の国語」、適性対策新作など、まるで売れっ子作家並みに時間に追われています。加えて、読書に時間も取られる。いや読み始めたら何もかも放り出して読む、だから後でしわ寄せがきて苦しむ。ときどきもう何もかも放り出してどこかへ行きたい、そんな気持ちに襲われる。小3の子が、「先生、5年生がびっくりしてました」とうれしそうに話していました。難しい分数の計算を解いて見せたのだそうな。ふとわたしも心が救われる。なにかうれしくなる。かつてあるお母さんが言いました。「先生、娘はいろんな先生に教わってきましたが、阿部先生の説明がいちばんわかりやすかった、と申しておりました」と。塾の先生のささやかな喜びです。そうだったんだ、なにも言わない、ただ黙ってわたしの説明を聞いていただけなので、そんなことは思いもしなかった。ただわかってくれたのだ、そのことだけはわかってました。

 塾の先生というのは、いつも子どもたちのことばかり考えていますね。作文がなかなか書けない、そういう子なんか、ずっとわたしの中で重くのしかかっていますね。それでいろいろ処方を考える。「抽象化訓練」というレジュメはわたしの苦悩の結果生まれたものでした。まだ試作品ですけどこれからよくなりますよ。きっと、わたしのレジュメは次第に進化していきますからね。すでに第3回をお渡ししていますが、熱心なお母さま方はすでにご覧になり、何かを感じておられるのかもしれません。ただ作文の添削でわたしが、「もっとこの部分を抽象化してください」というコメントが書けるようになりました。このレジュメは始まったばかりですが、子どもの作文がいきなりよくなっています。今「定義化」という次のアイデアを温めているところです。わたしには時間がない、あまりにも時間がない。

 指導の機微と繊細な技術は、指導の実践を通じて得てきた。説明する過程からふと、思いつくアイデアのいかに多かったことか。子どもの「わからない」という表情がわたしには辛かった。なにが辛いって、これほど心に重くのしかかる負荷はない。「わからない」という反応も十人十色、その度に新しい工夫をする、悩む、塾の先生というのは、だれにも勧められない、とても苦しい仕事だと思います。「わからない」と涙を流す子もいました。ふてくされる子ももちろんいます。落ち込む子も多かった。能力がないと結論する前に、自分の説明能力をどれほど責めたことか。わたしには無理と言いながらも、無意識に、考えている、これが塾の先生なんですね。わたしには無理だからと退塾をお願いする、これは正直敗北感というのはあります。ただ手に余る子が退塾すると、体の中からスーッと力が抜けていくのがわかる。体が軽くなるのがわかる。やはりわたしには相当にストレスであったのだと思う。

 親御さんも自分の子のことだし真剣です、必死なのだと思います。ただわたしにはもう無理かなというわたしの思いをなんとか受け止めていただけないかと思っています。わたしももう若くない。熱血教師のようにできない子に情熱をかけるということはもうできないと思います。子どもたちの不活発というのはすぐに出るものです。それは勉強が、わからない、面白くない、そこからくるものです。そういうときは、竹の会から離れる、これはしかたのないことです。すべての子がみなうまくいくことはないのですから。

 竹の会にクレームを言うのはかまいません。ただわたしの指導についてのクレームなら、それはもう必要ない、即退塾の申出をしてくれれば済むことですから。それから親御さんの中には、竹の会に入れば、親はもう何もしなくてすむ、塾がみなやってくれる、というようなことを言われた方がいましたけど、それは少なくとも竹の会に関しては、そういう塾ではありませんので、誤解していることになるのではないか、と危惧しております。そもそも小学生に手がかからないなんてありません。小学生だからこそ、親が手をかけなければならないのです。国語だって、親が先生です。ただ作文を親が書くのは困ります。また算数のレジュメを親が教える、それで自分で解けたことにする、これも困ります。わたしに替わって「教えろ」とは言ってません。ただ「わからない」と言うとき、相談にのってあげる、それくらいはしてほしい。

 塾というのは、日々生じる、生起する子どもの「わからない」を真摯に、いやわたしにはかなりの衝撃なのですが、とにかく事実として受け止める、その上で、「どうしたものか」とあれこれ悩む、そしてなんらかの処方を探る、そういうことを仕事にする、ところだと思うのです。この子に何が足りないのか、いつも考えます。入会試験というのは、子どもの能力というものを如実に反映していますね。文を読み取り、意味を理解し、きちんと操作のできる子なら問題ない。正直、そんな子だけ見ていられればこんな幸せなことはない。しかし子どもはみな抱えています。できない、わからないということを憂いを持ってとらえていますよ。それはそのままお母さんやお父さんの心を映し出している。「わからない」は悲しみ、子どもには悲しみでさえある。それはお父さん、お母さんへ自分のそういう姿を見せる、その悲しみなんですね。

 だからわたしも悲しい気持ちです。塾の先生は、子どもたちの「わからない」といつも真摯に向き合っていかなければならい。そういう仕事です。だから「わかった」ということがほんとうに細やかな喜びなんですけど、とてもとてもうれしいのです。

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