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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷、西一直線/小石川、九段への道/竹の会と出会うことの意味

2016.07.31

 おはようございます。夏酣(たけなわ)、竹の会も夏期日程に突入しました。といっても巷の塾とは違い、竹の会には、授業というものがない。口角泡を飛ばして喋る講師、それを真剣に聴きながら板書を写し取る子どもたち、そういった光景はありません。普段の指導とちっとも変わらない光景が繰り広げられるだけです。前にも言いましたが、竹の会というのは訓練している、練習を積んでいる、そういう形容の方がよく言い表しているのかもしれません。世間一般の塾とはかなり違う、と思います。さてこういう自由な雰囲気でやっていると子どもたちの中には何をやっても自由で許されるのだと誤解する子が出てくる。家庭でやるような規律のないことをやり出す子も出てくる。魔法瓶を大きな音を出して落とす、席の周りに物を散らかす、飲み物を床にこぼす、隣や後ろを平気で覗き込む、ひそひそと話をして周りの静謐を乱すなどつきません。ここはひとつ注意をしておかねばならない。後で泣かれても困りますから。竹の会ではこれだけは許されないという一線が厳としてあります。教室で自由におしゃべりを始める。これはやってはならないことです。教室では一言も喋ってはならない。よくわたしが、「退塾したほうがいいのではないか」と言うことを本人に言うことがありますが、あれは半分本気です。わたしが嫌なのは退塾ということを告知すると必ず本人も反省しているから続けたいということを言われる親御さんがいることです。わたしが退塾を口にするときは、他の生徒に影響が及びただ本人限りのことでは済まされない状況にまできている場合です。塾で大声を出すというのはやってはならないことです。自分限りのことではない、周りの子たちは静謐に勉強する権利があり、塾はその権利を当然満たしてやらなければならない義務があります。騒ぐというのは、他の子たちの契約妨害ということにおいて許されないのです。ちなみに建物に落書きをする、備品に傷を意図的につける、暴力的行為、たとえば喧嘩をするなどは即退塾です。反省しているからもう一度チャンスをというのはありません。竹の会では室内を歩くときは、静かに、トントンと足音を立てないように、再三注意しておりますが、新規入会の子や小学生にはなかなか徹底しません。その度に注意はしていますが、何度注意されてもすぐ忘れてしまう子も多いようです。先日はトイレの鍵が壊れたと騒いでおりましたが、普通に大切に扱えば壊れることもない、乱暴にやるからです。そっと扱うというのも大切なことです。これはどうか意識的に心がけてほしいことです。とにかく静かな教室で勉強に集中する、これが竹の会の生命線です。この生命線を脅かせばそれは退塾とされてもしかたないことです。

 現在竹の会では、渋谷Aでは空席なしです。ひとりひとりが自覚をもって静かにするという意識を持たなければたちまち全体に騒然とした雰囲気になってしまいます。指導終了後に一斉に解放されたのかしゃべり出す子たちがいますが、その中に中学生が混じっていてはお話しになりません。中学生こそ小学生に対して指導的にそういうことを注意する立場でしょ。しかし、現状は率先して喋っています。過去の竹の会の先輩たちが終わっても一言も話さず、わたしからあえて注意することが何もなかったのとは現在はあまりにもかけ離れています。竹の会に慣れてきましたか。自由に何をしてもたいてい許されると舐めてきましたか。それはあなたたちの誤解です。竹の会は静謐を壊すという行為に異常に敏感です。それだけで退塾の根拠になると判断しております。

 それから指導室で診てもらうために待つ、そのときにだらだらとお喋りするなどの行為は指導妨害です。それは、わたしの説明の声がかき消えるほどで、教室で集中している子たちにも迷惑なことです。わたしは幾度なくその度に物静かに注意しています。しかし、それとなく注意するのでは一向に効き目がありません。舐めてくるわけです。少々のことはやっても許されると誤解してくるわけです。調子にのってしゃべるわけです。こういう子にはお灸をすえるほかないのです。去年の小6の一部がそうでした。小5のときからそうでした。中々勉強に戻らない、そういう子たちがいました。去年は小6ということもあって退塾ではかわいそうだと差し控えてきました。しかし、後々考えるとやはり退塾としておくべきだったと思っています。後でわかることですが、そういう子たちの親が自分の子が迷惑をかけたなどという意識が全くないのがわかったからです。

 がまんすべきことではなかったということです。勉強を回避する、先延ばしするというのは塾で勉強に集中しない方便です。あと多いのが「今日は体の調子が悪い、だるい」です。それなら来るべきではなかった。結局勉強に集中しないということが他の子たちの勉強を妨害するからです。

 わたしは大声で激して怒るということはやりません。いつもそれとなく冷静に注意しています。しかし、それを何をしてもそんなに叱られないのだと誤解して調子に乗る子が必ずいます、度が過ぎれば結局竹の会にはいられなくなります。それは自ら招いたことです。勉強というのは、謙虚を本質とします。謙虚な心のない者は少し能力があって小さな成功することはあってもいずれは潰れます。

 とにかく竹の会が集中して勉強するという一線が崩れることだけは決して許さないということは知っておかねばなりません。

 少々小言になってきましたけど、子どもたちが増えてきまして、静謐を維持することに神経を遣い、子どもたちの意識が希薄で幼すぎて少々苛立ちを感じています。

◎竹の会と出会うことの意味

 竹の会の渋谷教室はほんとうに席が少ない。元代々木教室では常設26席だったか、本気出したら30席はいけた。渋谷教室は狭くなって席はとにかく少ない。渋谷Bができて費用の安いBという人もいるけれど、Bは指導時間が絶対的に少ない。余程のモチベーションがなければBでは効果はない。

 世の親御さんというのが当然費用をも考慮に入れて行動するであろうことはよく理解できる。竹の会の費用が安いとは思わないけれど特に高いとも思っていない。大手のように無料体験講座とかで集めておいて次第に講座数を追加していくという巧妙な手口だと単価の安さに釣られて気がつけばかなりの額を払っていることになる。たいていはこれで取りこまれてずるずる行くケースがほとんどであろう。竹の会は夏期も冬期ももう20年以上同じ額しかとらない。夏期は8月の通常指導はないからこれもない。冷房、暖房だからとか、施設費とか、紙代とか、テキスト代とか、とらないし、テキストを使うときも仕入れ価格で提供しこれで利益を得るなど考えたこともない。文具も希望者には、仕入れ価格で便宜を図っている。それで思い出しましたが、課題にはできるかぎりA4の原稿用紙を推奨しています。竹の会では指導用に仕入れたものを希望者にお分けしています。A4原稿用紙100枚で、税込みで400円でお分けしています、ちなみにアマゾンだと383円ですが、送料がかかります。プライムなら2000円以上買えば送料はただです。さらに、ちなみに定価は497円です。

 A4の原稿用紙がいいのは、竹の会のレジュメがA4のためファイルしやすいことですね。それから添削がとても楽です。ノートやレポート紙、無地の紙など使う人がいますけど、添削スペースがないなどいろいろやりにくいし、字数感覚を身につけられない。

 竹の会というのは、勉強の道場みたいですね。とにかく初心者からしだいに上級者へとすでに定型化しつつある手順にしたがってひたすら進める、そういうことだと思います。合格はんこをいちいち取りながらでなければ上へは進めないわけで、わかる、わからないが日々確認されています。日々の指導において、指示が出されますが、その対応を診て竹の会で指導することの可否も判断しております。できなければ、わからなければひたすら練習を積むことになる。だから道場といえば道場なわけです。子どもたちは「実」を取っている。私は大手の講習を受けることになっているという親の話を聞いて驚いたのですけれど、前半2時間×4回、後半3時間×4回の授業を受ける、のだというのです。わたしはこんな授業受けても意味がないと思ったのでそう言いました。よく考えてみてほしい。この授業を受けて子どもがどれだけ変わるのか、期待ができますか。わたしから言わせれば相変わらずベタな割合の問題も全くわからないままに夏は終わるのだと思います。要するに無駄な1年を過ごすことになる。行っても意味がなかった、そういうことをやるわけです。竹の会が小5までに割合などを終わらせ、小6からは適性対策、ということを言ったら、「中学受験の大手と同じですね」と言った親がいましたけど、違いますけどね。竹の会は、小5までに思考力の基本を作り上げるといったまでです。小6になって実は思考にさらに磨きをかけることには変わりがない。たとえば、今小5がそこそこ難しい割合の問題なんか解いていますけど、これだけとってももうその辺の塾の子たちでは相手にならないと思いますけど、これは思考形成の過程において必然そうなっただけで、別段最初から「この」問題が解けるようにがんばったわけではない。思考力形成の途上の話しにすぎない。

 竹の会の指導というものを経験した子、いや親ならわかるはずです。子どもの変わるようすがまるで目に見える、絵に描いたように変わることが。子どもたちは、最初小数、そして分数と手順を踏むだけです。そしてその分数の計算もあっという間にすらすらと解くようになる。それで割合の導入、概念形成の段階に入る。一枚、一枚のレジュメを積み重ねていく、そうするうちに割合というものを頭の隅々まで染みこませる。定義です。勉強というのが定義から始まり定義に終わる、これを子どもたちは竹の会の指導ということを通じてミリ単位の指導で次第に自分の脳に刻み込んでゆく。割合はすべての考え方の基本となる。割合というものが単位あたり量を基底としていることも学ぶであろう。速さも単位あたり量のことだ教えられることであろう。流水算や面積図などもいつの間にか忍び込まされている。単位あたりから縮尺、そこから単位の変換の妙をも学ぶことになる。図に描くことが、問題文の翻訳をすることと気がつくはいつのことか。線分図も実は算数の文章の翻訳だったのだと気がつかされる。考えてみれば、問題をどう翻訳するか、そのことが、算数を考えることなのだということをいつか知るときがくる。考えるということであってみれば、それは国語だって変わらない。国語という読解が実は国語文の翻訳だったと悟る日が必ずくる。社会の資料を読み取るというのも、社会的な表現に翻訳することなのだということを悟る日が必ずくる。してみれば理科だって、理科的な表現を悟ることなのだ。

 竹の会で学ぶこと、その意味がいつかわかるときがくる。そのときにそのときこそきっと思うであろう。「竹の会に出会えてよかった」と。竹の会に入会された多くのお母さまたちが、竹の会との出会いを心から喜び、竹の会と出会って「幸福だった」と言ってくださります。

 わたしはいつも思っています。東京の渋谷駅のすぐ近くに「こんないい塾があるんだよ」、「どうか東京のみなさんがそのことに気がついてほしい」といつも心から願ってきました。わたしの夢は、「東京の渋谷駅の近くにいい塾があるそうよ」といつか多くの人たちの噂に上ることでした。せっかく竹の会に見学にきた親たちが、頭から竹の会を否定して、受け入れずに帰って行く、そういう人たちがたくさんいました。わたしは大手を信奉する親たちに竹の会を認めてもらうことのほとんど不可能なことを知っています。わたしの思いが、夢がこの「草枕」を読まれるみなさんから拡がってゆくことを切に願っております。

 

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