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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立日比谷、西一直線/小石川中等、両国附属/東京の名塾となること/指導心髄

2017.08.28

 おはようございます。夏の指導の疲れが取れやらぬままに疲れきった体を癒やしながら回復に努めております。昨夕から凌ぎやすい気温にまで下がり朝には涼しげな風がベランダから吹き込み他方のベランダへと吹き抜けていき、なんとも心地よい朝でした。外で鳴くセミの音に耳を澄ませばどうもミーンミンミンと鳴いている。これは夏の終わりに鳴くセミの声、気象庁は9月の残暑を告げるけれどいつもマーフィーの法則通りになってきた。西瓜の夏は終わり、晩夏には幸水、程なくして奈良産の種なし柿が大量に出回る頃はもう秋の様相が一段と深まる時期になる。例年とんぼ返りで出かけた京都、ときには奈良に今年も行けるのか。京都の東福寺の紅葉は今は中国人などの外国人が溢れていけない。どこへ行っても外国人が占拠して埋め尽くす。京都は民家が庭を貸し駐車場にして荒稼ぎし、どうみても使い勝手の悪い市内循環のバスはいつも満員で、なにかこの街はズレている。わたしの初京都は中3のときに行った修学旅行であった。大分県別府市、別府駅に朝まだ暗い時間に集合して夜行列車を借り切って京都に行った。京都、奈良、大阪を回り、6泊7日。ただし、汽車で2泊だから、旅館に泊まったのは4泊。京都に憧れるようになったのは、実家の隣の鶴高の先輩が京大に合格したときからかもしれない。いつか自分も京都大学に行きたい、と秘かに決意した。心に秘めた京都への思いがいつもわたしの心の中にはあり続けた。

 いつも京都を訪れると、修学旅行の頃のわたしが京都を懐かしがっていた。もうすっかり忘れているはずなのになぜか懐かしい思いに駆られる。

 なんかおかしい、と思うときがある。いろいろもっともらしい説明を言う人たちがいてなんかおかしいと思うところを説明するのだが、やっぱりなんかおかしいのである。そもそも説明なんかで「ああ、そうですか」と納得するのがおかしい。とにかく自分の頭で考えてつながらないことを受け入れるわけにはいかない。昨今は結論だけで根拠なしというご時世である。根拠がないから説明することになる。説明とは根拠がありませんと白状するようなものである。キャッチコピーだけで動く人がいる。触りのよい言葉に動かされる人たちである。「何々にいい」とテレビが言えばたちまち売り切れる、行列になる、バカがうようよいる。こういう連中には根拠はいらないのである。情動に訴えればいい。

 新聞の広告で、データがあるとか、実験で確かめられたとか、そこから絶対的にこれが正しい真実のように言い募るのをよく見るけれど、さしたる根拠はないのである。医師が手術に失敗しても責任をとらない社会である。官僚制度とは無責任を制度的に組み上げたものである。そういえば大手塾は「大きいことはいいことだ」というだけで世の中のバカ親に支持されているのだった。雑草博士稲垣栄洋の話しが面白い。「木と草のどちらが進化した形か」と言うと、木ではない、草である、という。最初は小さいものから発展して大きくなる、と考えがちであるが、そうではない。植物は巨大な木から小さな植物へと進化した。それは変化の大きい時代に対応する知恵であった、というのである。安定した環境であれば、大きいほうがすぐれているが、変化の大きい環境では、そうではない。変化に対応できないのである。

 先ほど根拠ということを申しました。「根」という字は人間に注意を促す字である。わたしたちは花を咲かせた植物の姿を鑑賞するけれど、その植物を支えている根こそ実はその植物の本体なのだということをすっかり忘れている。タンポポの根は地下1メートルに及ぶものもあるという。タンポポはもちろん茎を伸ばして花を咲かせる。けれども何度か踏まれていると、茎を横に伸ばしていくのだという。そして地面に近いところに花を咲かせる。いつ踏まれてもいいように備えているのである。踏まれても立ち上がるのではない。どんなに踏まれてもしっかり生き抜くというのが雑草の生き方なのである、という。

 さてわたしはこのところ特に小4早期からの訓練の必要性というものを訴えてまいりました。かつては竹の会のような小塾がそういうことを訴えたとしてもだれも耳を傾けてくれないというのが現実でした。私立受験の親は知らず公立中高一貫校受検の親となると小5になって「そろそろ」いうのが半分、あと小6になってから動く親もいれば、逆に小4から大手に入れて準備する少数の親もいる。小4から始めても大手に入れれば子はバカになる。平成20年当時の公立中高一貫校ねらいの親はたいてい小6になってからやってきたし、「小5では早い」と公然と言っていた。だからわたしも長く小4の2月(つまり小5直前期)をスタート時期として募集しました。しかし、実はこれでは実際には遅いというのが正直な感想でした。学校の優等生が勉強だけに専念したとしても間に合うかどうか、というのが真実でした。ところが、公立中高一貫校受検の親というのは何かしら子どもに習い事や稽古事をさせていて、それもかなり夢中になっている。そうなるとますます小4の2月ではもう間に合わない。何かをしながら間に合うほど簡単試験ではない。夢中になってやってどうかという試験なのである。そこでわたしは小4早期の入会をこの2年は強く勧めてまいりました。小5から来て始めるのは遅すぎる。そのことは小4早期に来た子の進捗と比べればすぐにわかる。計算から初めて割合に進み割合の理解を積み重ねていく過程は小4と小5でほとんど差がないのである。小5が6か月かけて学ぶことを小4も同じペースで学んでいく。それなら小4期にそういうことは終わらせておくほうが絶対に有利である。

 視点を変えてみよう。タンポポは根を地中深く、中には1メートル以上も伸ばしていく、という。かつてヒノキについて書かれてあった本には、千年、二千年と生き抜いているヒノキの根は岩や石がごつごつした環境の中で、岩の隙間とか、割れ目とかに忍び込むように根をめぐらし、深い地中に根を張り巡らせているのだ、ということをが書いてあった。そうなのである。小5に来てはその根を地中深く張り巡らすという期間が「ない」のである。小4早期にきた子たちが小4の間じっくりと根を伸ばしている間というものが小5にはないのである。竹の会の予定したレジュメ集を終わらないままに受検訓練に入った子たちは小5にきた子たちである。不本意な終わり方、進め方をせざるを得ない。

 これは実は深刻なことである。指導というのは、「間」がすべてである。一問を与えて考えさせる、それも間である。間を取るのが指導の骨頂である。間がなければ指導は効果を発現しない。考える間、間の緩急、間延び、間のかけ過ぎ、すべて間である。間抜けというけれど間が抜けているのは拙速である。翻って見てみよう。大手に行く意味をである。大手自慢のテキストを手にして喜ぶ親子の姿はこの際無視するとして、そのテキストを終わらせればできるようになると信じているのがまず間抜けである。真面目なお子さんは親の言うことをよく聞いて、ノートにきちんと予習し、授業を聞いて理解する、それからお家に帰って復習する。週末には確認テストを受けて、いい成績だと、親子で幸せ気分になる。これで押しも押されもせぬバカになるということが悲劇と言えば悲劇である。何がダメなのか。テキストの良否は置いておく。問題は授業である。説明されてわかるという習性を型にはめてしまう授業である。大手の授業中心の指導には「間」がないのである。何か投げかけて子どもが受ける、受けてからの間がないのである。畳みかけるようにわかりやすい、熱血説明がなされる。大学生講師というのは教えるのが大好きなのである。自分がこんなに知っているよ、ということを教えたくてうずうずしている。わかりやすく教えて「わかった」「わかりやすい」と親や子に言われるともう有頂天になり、教えることに磨きがかかる。もちろんこれは熱心な学生の話し。中には、学力不足の学生もたくさんいる。こういう学生を雇って商売しているのが大手なのである。間がないという欠陥もさることながら、既成のテキストに規定されて一様に同じことをやるというのも異様ではないか。大手は知能の問題は「ない」かのように振る舞い、だれでも受け入れて、同じ釜に入れてしまう。もともとの天才は教えられなくてもいずれは自らの才で頭角を表す。大手はそういう子だけをつみあげればいいと思っているに違いない。バカはカネだけとって切り捨てる、そう思っているにちがいない。

 こうして指導に「間」が大切であるということ、この間を取る指導をするには、小4早期から入会が絶対条件である、ということを主張したい。

 

 

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